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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 57

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 57

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/10/11 7:45
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 戦後六十五年、我が町 南中野
 斎藤 百合子(さいとう ゆりこ)その1






 私の出生地は東京都神田区(現千代田区)です。現在は大電気街の一部になっています。
 昭和初期は、下町らしい人情味のあふれた住居も含めた商店街でした。私も八十歳を過ぎて遠いあの忌まわしい記憶を引き出したいと思います。

 昭和十九年十一月一日昼間、B29、一機襲来があり、その後毎日続きました。そして十一月二十日頃、初めて夜間の空襲、我が家には庭がないので、防空壕はお店の奥の六畳間の畳を上げた床下に掘ってありました。今考えても、あの時焼夷弾が落ちてきたら、絶対に一家全滅だったと思います。でも、あの頃の防空壕は、表通りの人たちにも掘ってありましたが、各家庭のものは皆、家の中に掘ってありました。

 空襲の夜が明けて翌朝、母は姉、私、弟とともに親戚の家作の「空き家」に疎開しました。そこが中野区新山通(現南台四丁目)現在の住居がある場所です。
 昭和十九年頃には麦畑が広がり、遠く富士山も眺められる田舎でした。父だけはお店のある神田に残っていましたが、二月二十五日昼間の空襲で神田のお店の方も焼失して、父も中野に移ってきました。

 その頃の私は、昭和十九年四月から本所区(現墨田区)亀戸にあった「三菱製鋼」に学徒勤労動員されており、私は女学校三年生でした。激しくなって来た空襲の中「旋盤工・ボール盤工」として兵器の部品作り、学業を投げ打って日本の勝利を信じて働いていました。中野からの通勤の時も、空襲で省線(lR)が動かなくなり、亀戸から秋葉原まで歩いたことがありました。

 三月九日の夕方も、工場帰りに友人七、八人と共に亀戸から両国、秋葉原と真っ暗な道を歩いて帰りそれぞれ別れましたが、後になって、その夜の空襲で二人の友人が一家全滅になったことを半月も経って聞き、本当に悲しみました。

 大空襲の後半月ほどして、一部工場が焼け残った「三菱製鋼」へ行きました。行く途中の道路の亀戸駅にも壁には真っ黒に人の油が焼け付き、また、道端には馬や犬の黒こげの死体など、周りを見ると、見るに耐えないと言って、友達と真っ直ぐ前を向いて歩きました。

 軍国少女であった私たちでも、省線の往復で見る焼野原の続く景色を見て「これで日本は本当に勝利するのか」 と口には出せず (言葉にすれば国賊です) 考えたものでした。

 神田の生家の焼け跡には、三月十日の大空襲のあと、たしか四月になってからと思いますが、母と共に行ってみました。一面の焼け野原で残って見渡せるのは、小学校の残骸と外部のみの神田明神、ニコライ堂等が見えました。我が家の焼け跡には重なったレコード盤の中心部分の塊、鉄のガスコンロなどで、後はかたづけられていました。

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