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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 51

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 51

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/10/3 7:55
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 太平洋戦争と私
 依田 比沙子(よだひさこ)その2

 忘れられないのは二十年二月の大雪の日、午後の交替をして何人かで駅へ向かう途中で空襲になり、頭上をB29が低空で飛来、深い雪の中で目立つので、機銃掃射が怖くて近くの神社までころげるように夢中で走って回廊の下へもぐり込んだ事、電車は止まってしまい線路伝いに家まで歩いて帰った事など。毎週月曜日は休電目なので登校し普段逢えない先生やクラスメートと話をするのは楽しかった。

 以来、毎日のように空襲があり、警報が間に合わずに爆弾や焼夷弾が投下された事もあった。そんな中私たち四年生はあと一年を繰上げ卒業となり、五年生と共に三月二十八日卒業式に臨んだ。幸いその間は警報も出ず記念にと写真館に寄って帰った。その後も引き続き空襲の被害で閉鎖になるまで工場に通った。

 私たち家族は疎開する縁故もなかったので少しでも安全な所をとの思いで、四月一目に世田谷の松原へ引越した。大きな家具は父の勤務先に依頼して運んでもらい、あとは銭湯で大八車を借りて父、叔母と三人で往復し、半分は青山に残したまま知人に貸していた。京王線代田橋の駅前に和田堀給水場があり、それに沿って左に曲った幅広の水道道路に面した踏切の近くだった。青山に比べると家も立てこんではなく、郊外といった感じで庭も広かったので壕は勿論、菜園も作った。洋子は二年に進級、純子は体が弱くて学童疎開の仲間には入れず、転校の手続きもできないまま家で正昭と遊んでいる状態だった。

 空襲は都内だけでなく、だんだんその周辺にも及んできて、いつ何時警報が出てもよいように、玄関に頭巾と重要な物を入れた手製の袋(救急袋と呼んでいた)と水筒、履物を各自用意していた。
 五月二十三日夜半の空襲は京王線の向こう側に落ちた焼夷弾で何軒か焼けるのを家の前で見ながら避難はせずにすんだ。

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