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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録4

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録4

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/10/19 6:34
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 帝都航空本部情報

















 被害数については以上のように様々である。その信憑性については確認できる術がないので概数として捉える他ない。来襲機、投下弾数については米軍の数字が確かと思われるので、東京空襲を記録する会(のちに東京大空襲・戦災資料センターが継承)では原則として米軍の資料により、被害数については、原則として警視庁の調査を用いている。東京都編集の「東京都戦災誌」(二〇〇五年八月復刊)は帝都防空本部情報の数字を使っている。各区でも戦災被害状況を集計しているが、港区(赤坂、麻布、芝区)の場合、「東京都戦災誌」を使用している(死者‥赤坂区五五一、麻布区六六、芝区一二〇)。「港区史下巻」、「新修港区史」に記載されている数値はいずれもやや高い。

 五月二十五日から二十六日にかけての空襲は、三月十日に次いで最も大きな空襲であった。B29の機数は四六四機、焼夷弾の投下数は三二五八トン(いずれも戦災資料センターの数字、本書付録)で、下町空襲の倍近い数だったが、死傷者の数ははるかに少ない。

 このことは地域の立地条件の違いや建物疎開がされた事や空襲の連続で老人や女性、子どもたちの疎開が急速に増えたことも一因といわれるが、三月十日の教訓から、住民が消火活動より早く避難することを選んだためと思われる。

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