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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 56

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 56

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/10/10 7:13
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 焼夷弾が焼いたもの
 永井(ながい) おとよ

 昭和二十年五月二十五日、夜十時頃だったと思います。空襲警報のサイレンが鳴りました。

 幡ヶ谷本町に、支那事変での負傷(頭蓋骨陥没)により除隊となった夫と、その両親の四人で暮らしていました。近所に焼夷弾が落ちて、あっという間に燃えてしまいました。すぐ、逃げる支度をしました。バラバラでもいいから逃げようということで、主人は、親しかったお向かいの子供二人を連れて先に逃げました。義父は警防団で行ってしまいました。生きていたらこの家に戻ることにして行きました。何かを持つ暇はありません。私は、義母と二人で、主人に言われたとおり、明るい方へ、燃えている方へ走りました。中野方面の畑を逃げて行く時、何か塊がすぐ横に落ちました。不発だったと思います。

 火の粉が牡丹雪のように、何時間も降り続けました。とにかく熱いこと、とても熱かったです。もう、中野に近い所だったと思います。中野の方を向いて左側の歩道に、五、六人ずつ並んで、前の人の火の粉を払い、後の人は、私の火の粉を払ってくれました。見知らぬ者同士です。道路を、布団一組くらいが、火だるまになってコロコロ転がって行きました。強い風が起こっていたのです。火の粉を払ってもらっても、首の後ろに二、三箇所火傷をしました。今もひきつれが残っています焼夷弾は、火がついて、空から懐中電灯が降ってくるように見えました。

 そして、空襲が終わり、朝、家に戻りました。見渡す限り、焼け野原でした。焼け跡で最初に会った人は町内会長さんでした。炭焼き小屋から出てきたような顔で、自分の顔も真っ黒だろうと思いました。無事四人揃い、朝は炊き出しのおにぎりを貰って食べました。防空壕はすぐ開けると火が出る、というので夕方開けました。煮炊きをするにも燃すものがなく、お隣りのお姉さんと二人、バケツを持って坂の上にあったバス会社に、コークスの燃え滓を貰いに行きました。咎められましたが、何も無いのだから、と二人で言い、拾わせてもらいました。

 主人の友達の松本さんのお宅は牧場をしていらして男手がたくさんあったことと、家が隣接していなかったことからでしょう、三方焼けても、お宅は無事でしたので、焼け出された日の夕方から一週間、泊めていただきました。本当に有り難かったです。

 その間、甲州街道を黒焦げの裸の人がトラックで運ばれるのを毎日目にしました。荷台に積まれた黒焦げの姿は、何とも悲惨でした。戦争はやってはいけない、と思いました。とても気の毒に思ったことを忘れません。



 松本さん宅にお世話になっている間に、羅災証明書(写真参照)を区役所からもらい、田舎に帰る目処がつきました。証明がないとすぐには切符が買えなかったのです。新宿から東京駅に行きましたが、途中のどこも人があふれていました。

 私達が乗った東海道線はたいへんな混雑でした。六時間かかって袋井(静岡県西部)に着きました。女の人は皆もんぺ姿です。私ももんぺ姿で帰って来ました。

 主人の実家(現磐田市)に落ち着きました。東京のような空襲はもう無いと安心していましたが、六月だったと思います。遠州灘からの艦砲射撃がありました。遠く見るのでも艦砲射撃はすさまじい火です。浜松にだけ大砲が撃ち込まれました。この砲撃で、知人が顔と手にひどい火傷を負いました。

 東京では、五月二十五日の空襲の前にも艦載機がたびたび昼間やって来ました。低く飛んで、地上の人間を銃撃するので、それは怖かったです。そのたびに、押入れに布団を垂らして隠れました。ほとんどの場合が防空壕に入る間などなかったのです。


 焦土と化した東京を思えば、新緑に包まれる故郷の地は、まさに別天地でした。けれども茶畑を越えて飛んで来る砲弾がもたらすものは同じでした。
 何といいましても、六十年の余も前のこと、記憶も薄れました。それでいて、断片は鮮明に浮かび上がります。
 私達は東京に戻ることなく、この地に暮らしてきました。





  
 (渋谷区幡ヶ谷本町三丁目)

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