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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 48

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 48

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/30 8:05
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 弁慶堀に一晩浸かって
 安藤 要吉(あんどう ようきち)その2
 
 後日談で父組は弁慶堀の反対側の東宮御所に逃げ込んで無事だったとのことだから、弁慶堀の中の我々とは道路一本隔てた目と鼻の先にいたのだ。翌朝探しに来た父は途中の焼け野原の惨状を見て私との生き別れを覚悟したと後に言っていた。

 余談だが、同じ夜赤坂榎町にいた従兄の姉弟は二人で逃げ、躊躇したあげく地下鉄の赤坂見附駅に逃げ込まなかったため助かったと、これも後に聞いた。地下鉄構内では多くの人が死んだという。一瞬の判断が生死を別けたのだが、こういったことが至るところで紙一重でおこっていたのだろう。

 幼かった私の記憶に残っている空襲についての他の記憶はあまり多くない。飛来するB29群が夜空を横切っていくのを見たことや、周囲の大人達がその夜空を見上げて(多分地上からの高射砲弾を指していたのだと思うが)「当たった」とか「当たらない」とか叫んでいたこと、家の前に掘られていた防空壕といった程度である。

 テレビで、当時警視庁所属のカメラマンの撮ったという三月十日下町大空襲の写真三十三枚を見た。赤ん坊を抱いたまま焼けて炭化した母親、同じく炭化して丸太のようになった死体の山、熱さに耐えかねて隅田川へ飛び込んだ人たちの死体の山の写真などに涙を禁じえなかった。改めて怒りを感じるのは、無辜(むこ)の非戦闘員のこのような大量殺教(さつりく)である。

 今になって悔やまれるのは、この五月二十五日の大空襲や戦時中の東京での暮らしについて父母や祖母からもっといろいろ聴いておけばよかったと思うことである。疎開をしなかったから私は東京空襲で実際に見たことではっきり憶えていることもあるが、なにぶんにも戦争中が満二~五才という年齢だったので記憶も断片的であったり、前後関係が定かでないのだ。また記憶にないことももっと聴いて知っておきたかったと思うのである。           
                     
 (赤坂区新町三丁目)

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