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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 45

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 45

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/27 7:20
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 赤坂の空襲
 阿川 君子(あがわ きみこ)その4

 赤坂方面の避難場所は氷川小学校ということでとりあえず氷川小学校に向かった。坂を登って行く途中、自転車を引いた戦闘帽姿の本間先生(赤坂小学校時代の担任)にばったりとお会いした。「ヤア大丈夫だったか、がんばれよ」 と元気な笑顔で声をかけて下さった。

 母の実家が三田の豊岡町にあり、幸い焼けなかったので迎えをよこしてくれて、その夜から座敷の蒲団で眠ることができた。不思議なことに、こわいとか悲しいとかは少しも思わず、あ、これで焼けてさっぱりした。もう焼けるものは無いのだから、さあがんばって戦い抜こうというすっきりした明るい気特になったことを覚えている。池からひきあげた鞄の中の濡れた原稿用紙を祖父が一枚一枚丹念に植木棚にひろげて乾かしていた姿が目に浮かぶ。

 浄土寺は江戸時代に何度か火災にあっているので江戸末期に建てられた本堂はなまこ壁の土蔵造りで窓や出入口の戸は厚い鉄扉と土の扉の二重になっていた。父は最後に本尊様をお出しした時、戸の閉め方が甘かったのではないかと大変気に病んだという。しかし後日、本堂の横に住んでいた方から「本堂の屋根を破って焼夷弾が落ちたのでもう駄目だと思って逃げた」という話を聞いて、やっと気が楽になったようである。

 それから九月末に赤坂に焼けトタンのバラックを建てて移るまで三田に住んで、都電の消えた焼け跡の町を三の橋から一の橋、六本木、防衛庁の横から赤坂へと、焼け跡片付けに毎日往復した。昭和三十六年に漸く本堂の再建築が出来、焼け残った阿弥陀様のお首と両方のお手に合わせて坐像を復原することが出来た。仏師の人が特殊な薬品で洗うと、鎌倉時代の金箔がよみがえってそのまま新しいお体の金箔と調和して全く違和感がなかった。

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