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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 61

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 61

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/10/15 7:37
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 母親の悲しみ
 村井 恵以子(むらい けいこ)その3

 当時、父は軍属でインドネシアのセレベス島メナドに通信基地の所長として駐在。長兄は海軍気象隊の一員としてマニラへ、二十年一月一日玉砕戦死、十九歳でした。次兄は予科練習生として中学三年十五歳で入隊、終戦の八月十五日未明神風特攻隊として出撃の予定でしたが、出撃直前隊長から待機の命令、そして終戦、命拾いをしました。

 母はどんなに心細かったかと思うと心が痛みます。そしてその強さには頭が下がります。二十年八月終戦。親に引き取られて帰京するもの、親の疎開先に行くものと、だんだん少なくなる中、私たちは家もなく、母は知り合いを転々としている状態で引き取りに来られませんでした。翌年二月帰京した私は、予科練から帰って来た次兄と中野の西武線都立家政で焼け残った桶屋さんの二階六畳間を借りて住み、昭和二十一年三月には戸山小学校を卒業。妹は生活が出来ないので養護施設に預けられました。その後父が復員してきて妹を引き取り、親子五人で成城に暮らすようになりました。

 母が八十九歳で亡くなってから十四年、私も人生の終盤に差しかかり、今つくづく思うことは、母が子供を失った(長男戦死、末娘行方不明)苦しさ、悲しさのあまり口に出せなかった気拝が理解できるようになりました。今後、民間人が戦火の中を逃げまどい、身内を失う悲しさ、辛さを二度と経験しませんようにと祈るばかりです。

 (淀橋区百人町三丁目)

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