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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 59

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 59

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/10/13 6:59
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 母親の悲しみ
 村井 恵以子(むらい けいこ)その1





 私が淀橋区立(現新宿区)戸山小学校に入学したのは昭和十五年で、その年は紀元二千六百年にあたり、十一月には提灯行列や旗行列の祝典がありました。翌十六年四月には尋常小学校は国民学校と呼称が変わり、十二月八目に大東亜戦争(太平洋戦争)開戦。すぐ翌年の十七年四月十七日には米空軍機B25の本土初空襲でした。戸山国民学校の校庭上空を飛び去って行くのを友達と見ましたが、すごく低飛行で、友達はパイロットと目が合った?と言っていました。級友の家が焼夷弾で焼け、近くの早稲田中学では直撃で中学生が亡くなりました。

 十九年八月から学童疎開が始まり、私たちの学校は九月に三、四年生は茨城県の土浦に、五、六年生は新治村柿岡町の五、六軒の寺へ組ごとに分かれ、私たち五年二組は男女組で、半里はど離れた片野村浄土寺へ行きました。

 二十年三月には東京下町大空襲、六年生は卒業のため帰京。四月には低学年生も群馬県に学童疎開開始、五月には新六年生も群馬県へ再疎開。弟、妹のいるものは低学年のいる寺へ合流、私も三年生の妹のいる女子の寺へ、下級生の世話をする六年生三名と一緒に移りました。私の班は十二名でした。
 五月二十五日は山の手大空襲で淀橋、新宿あたりも焦土と化しました。
 六月の大変暑いある日、私は寺の境内で下級生たちを指導して桑の幹の皮むき作業(繊維を取り布を作るため)をしていました。その時、遠い向うから畠の中の一本道を木の枝を杖にした汚い格好をした女の人がトボトボと寺に向かって歩いてきました。だんだん近くなり寺の山門の前に立ったとき、私は一瞬下級生を守らなくてはと門の所まで出て行き、仁王立ちになって「何か御用ですか?」と声をかけました。するとその人は頭にかぶっていた手拭いを取り「恵以子、恵以子」と私の顔を見て言いました。でもすぐには何を言っているのか解らず、「お母さんだよ!」と言われてはっとしてその顔を見ました。

 真っ黒にすすで汚れた顔、真白な髪、もんぺは薄汚れ、ポロポロの運動靴をはいた、まさに自分の母でした。いつも一緒にいるはずの末の妹がいないので、「章子ちゃんは?」と問いかけると、「死んじゃった!」と言ってその場にうずくまりました。

 身内のことを言うのはおこがましいのですが、明治四十年生まれの母は当時珍しく東京の女学校を卒業し、知的な上、色白で自慢の母でしたが、その変わり様に声も出ませんでした。本堂に上がらせ、水を飲ませ、少し落ち着いた母はただ一言「いなくなっちゃった」と話したのでした。

 五月二十五日の空襲で我が家も焼夷弾の直撃を受けて全焼、末の妹章子が行方不明になったことを知りました。この日は章子の七歳の誕生日でした。
 先生のご好意で、一晩三人で枕を並べて眠り、次の日は母一人で東京へ帰って行きました。妹は後を迫って泣き叫びましたが、母は後ろも見ずに遠ざかって行きました。東京へ帰っても頼る親戚もいないのに、また行方不明の妹を探しに帰って行ったのです。

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