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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 50

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 50

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/10/2 9:50
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 世田谷区松原町・下代田町
 麻布区山元町
 渋谷区幡ヶ谷本町
 中野区新山通
 淀橋区百人町
















 太平洋戦争と私
 依田 比沙子(よだ ひさこ)




 青山北町四丁目の電話局の裏手で生まれ育った私は、昭和二十年当時は南町五丁目の長者丸通りの奥で両親、叔母、女学校四年の私、同一年の洋子、青南国民学校一年の純子、五歳の正昭の七人で暮らしていた。

 女学校入学の十六年十二月八目未明に日本軍が真珠湾攻撃をし戦闘状態に入ったニュースを聞いたのは、授業の休み時間だったと記憶している。黒板横の壁に世界地図を張り、連日ラヂオで知らされた戦績を日の丸印で記入した。しかし日本の優勢も始めの頃だけで戦局は徐々に悪化、本土空襲に備えて建物の強制疎開で町の様子は一変、縁故疎開する人もいた。三年生になると学校工場と称して厚生省から持ち込まれた書類整理や、恵比寿の電機工場で電球を作る勤労奉仕もあった。

 十九年七月にはサイパン島玉砕も報じられ、学徒動員令により大田区武蔵新田にあった軍需工場「日本内燃機」で七月二十八日入所式を行い、二月の実習の後現場(仕上げ、旋盤、事務等)にふりわけられた。工場は二十四時間のフル稼働で、私たち女学生は朝六時から午後二時まで、二時から夜十時までの交替制で一般工員に混じっての作業についた。私は三尺旋盤を受持ち、ノギス(物をはさんで厚さや直径を計る目盛つきの工具)で削りすぎないように計りながら、長さ五糎位のコケシのような形の飛行機のピストンの部品を作っていた。日中、警報が発令されると職場の中の壕に入る事もあったが、空襲警報の頻度も増えてきて、夜間は工場内は危ない事もあり一本の長い綱を一列縦隊で持ち、はぐれないように闇の中を多摩川べりに避難した事も度々だった。午後の勤務の時は帰宅が十一時すぎになり、夜道は外灯もなく暗やみなので、毎晩父が地下鉄の外苑前駅まで懐中電灯を持って迎えにきてくれた。

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