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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 47

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 47

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/29 7:49
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 弁慶堀に一晩浸かって
 安藤 要吉(あんどう ようきち)その1


 



 昭和二十年五月二十五日の山の手大空襲は赤坂新町三丁目(現在の赤坂三丁目)で羅災した。
 このとき私は五才十ケ月で、就学前だったため学童疎開の対象ではなく家族と一緒だった。家族は祖母と父、母、私、三歳の弟、同居の伯母の六人だった。父が商売をしていたのと、「死ぬときは家族皆一緒に」という母の考えで誰も疎開をしなかった。だからB29の空襲を映画でも写真でもなく、肉眼で見た記憶が残っている。ただ、その記憶が五月二十五日の夜のものであったかどうかは定かでない。

 五月二十五日の空襲の夜は、祖母と伯母と三人で弁慶堀(堀がホテル・オータ二のほうへ曲がる前田外科病院の前あたり)に浸かっていた。堀から首だけ出して戦闘帽(当時の軍国少年は皆かぶっていた)で頭から水をかぶり続けていたことを記憶している。堀の水深は浅く、立つと子供でもちょうど首が出るほどだった。石垣に近いところだったのかもしれない。水をかぶっていても顔だけ火傷していたと後に母から聞かされた。堀は大勢の人でいっぱいだったように思う。新町から弁慶堀までかなりの距離があるからたぶん火の中を逃げ回って行き着いたのであろうがその記憶は全くない。

 その夜の記憶は今も鮮明だが断片的で、赤坂見附の弁慶堀に一晩中浸かっていたことと、翌朝の父との再会というそこだけ切り取ったような二シーンだけである。

 記憶は断片的で、堀の次のシーンは翌朝祖母、伯母と三人で山王神社の鳥居の根もとに坐っていたところに飛ぶ。全身濡れて叔母の膝の上で寒さに歯の根が合わなかったのを覚えている。そして、次は父のメリヤスの下着を着せてもらい、その暖かさに心底ほっとしたのを覚えている。自転車を引いて探しにきた父と再会したのだった。記憶はそこまで。暖かさに包まれた後の記憶は溶けるようにない。

 家族はいつも二組に分かれて避難していた。この頃、母は溜池の読売病院に入院していた。そのため空襲警報が鳴ると父は三歳の弟をおぶって自転車で病院に母を迎えに行って三人で避難し、祖母と伯母と私の祖母組と父組はバラバラに避難するのが定まりになっていてこの日もそうだった。

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