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『肉声史』 戦争を語る(54)

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通常 『肉声史』 戦争を語る(54)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/10/6 8:19
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
「国民服着てゲートル巻いて戦闘帽で勤労奉仕」

 中井町 大野英雄(昭和5《1930》年生)

 (あらすじ)

 昭和16年12月8日の開戦時、私は平塚に住んでいて、国民学校6年の12歳だった。
 地図を広げ、大きな国相手で勝てるかなと心配した。開戦後、学校では空き地でさつま芋や南瓜《かぼちゃ》作りと農作業が増え、勉強の時間が減った。体力増強には力を入れていて体を鍛える授業が増えた。学校の周りに農家が沢山あり、勤労奉仕として手伝いに行った。学業はそっちのけだった。その後、中学へ入っても授業時間は削減され、教練《=軍事教練のこと》がほとんどで鉄砲や機関銃の操作を習った。服装も学帽が廃止となり、戦闘帽《=略式の軍帽カーキ色の帽子》に。国民服を着てゲートル《=革・ズック・ラシャなどで作った洋風の脚絆(きゃはん)》を巻いて通学した。 先輩には挙手礼をという軍人と同じ教育を受けた。ラジオでは玉砕《ぎょくさい=全力で戦い、名誉・忠節を守って潔く死ぬこと》のニュースが流れ出し、学徒動員令《注1》が法律で発せられた。私は平塚の軍需工場で働くことになった。飛行機のプロペラを製作したが、素人なので良い物ができず、検査で合格するのがほとんどなかった。工場の給食がだんだん悪くなり、昼にお椀《わん》一杯の雑炊《ぞうすい》だったことも。
 15、6歳の食べ盛りには到底足りなかった。我慢しての生活。家庭でも食糧事情は悪かった。自宅も強制疎開《注2》となり、取り壊された。壊した柱や梁《はり》を牛馬力で、現在住んでいる中井町に毎日運んだ。両親が病弱だったので、16歳の私がほとんどやった。昭和20年7月10日、ついに平塚も大空襲を受け、学校や会社も焼けた。学校の片付けに通っていると、ダグラスP51が機銃掃射《機関銃の銃口を動かし、敵をなぎ払うように射撃する》してくる。よく生きていたと思う。疎開先で玉音放送《=天皇が終戦の詔書を読んだラジオ放送》を聞き落胆したことは一生忘れない。 
 戦争は人命も財産も全て失う。2度としてはいけない。

注1 学徒動員=日中戦争以後、国内の労働力不足を補うために学生・生徒を工場などで強制的に労働させたこと。昭和13年(1938)年間数日の勤労奉仕が実施されて以来、戦況の悪化につれて動員体制が強化され、同19年(1944)には通年動員となった。

注2 強制疎開=空襲や火災などの被害を少なくするため、建造物や人などを強制的に比較的安全な他の地域へ移動させること。

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編集者 (代理投稿)

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