『肉声史』 戦争を語る (12)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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「言葉失くし泣くことも忘れた私」
逗子市 小菅 イネ(大正13《1924》年生)
(あらすじ)
昭和20年、私は22歳で洋裁の勉強をしていてデザイナーになるのが夢たった。高価なミシンも買ってもらい夢に燃えていた。5月29目の朝9時少し前、父も妹も出かけていて私一人だった。いつもは朝にはなかった警戒警報がすぐに空襲警報に変わり、飛行機の轟音《=ごうおん》がした。外に出てみたらすぐ近くに低く飛行機が飛んでいて、乗っている人の顔も見えた。と同時に近所に焼夷弾《しょういだん》が落とされた。夕焼けのように真っ赤に燃えていた。小学校に避難したら、海岸に逃げろ。
海は隠れるところがなかった。小さな船にすがって身を隠していたが、砂浜にブスブスと爆弾が刺さった。じっとしていられなくて、リュックも捨てて海の中へ歩いて入った。次から次へと飛行機が飛んで行き、パラパラと爆弾を落としているのが見えた。とても長い時間に感じた。攻撃が去ったサイレンで我に返った。海から上がったら、町が全部燃えていた。周りにも人はいたと思うが、一人ぼっちになってしまった気がした。怖くて仕方ないはずなのに、当たり前の様に死体を見て小学校へ行った。
そこでやっと大勢の人がいることに気づいた。講堂の隅でじっとボーっとしていた。動く気力もなかった。 しばらくして家を見に行ったら何もかもなくなっていて、ミシンが倒れていた。あんなに大切だったのに、それをさわりもしなかった。父と妹が帰ってきて、3人で泣いた。それから小学校で過ごしたが、皆無言で、私は言葉が出なくなっていた。涙も出なかった。
(お話を聞いて)
小菅さんはゆめクラブ逗子の広報紙3号の戦後60年寄稿特集に「思い出のリュックサック」一私の命と引き替えにーと題して投稿されております。今回は横浜空襲の様子をもう少し、くわしくお話して頂くようにお願いしたわけです。
家で友人が来るのを待っていた昭和20年5月29目の午前9時前に空襲警報は鳴ったのでした。外に出て何気なく空を見上げると見慣れない飛行機が超低空飛空で銭湯の真上から私にむかってくるように通り過ぎると近くの家に焼夷弾が落ち一面火の海になった。
家の中に飛び込んだ、すごく静寂で落ち着いて鴨居《かもい》にかかっていた両陛下のお写真を見た事を覚えていました。
海へ逃げろ!との声で海岸へ行き小船の陰に隠れていたが大勢の人々が集まってきて危険だったので海の中へ入り首まで浸って、次から次へとやってくるB29《=爆撃機》を見て横浜の市街地を見ていたわけです。
空襲も終わり一人小学校へ向かう途中、小学生が全身火傷を負って苦しんでいるのを見たり、逃げ後れた人が走る姿のまま亡くなっているのを見ながら焼け残った講堂へ行った。
講堂の隅で一人呆然として死体が搬入されるのを見たり負傷者の救護を見ていたと言っています。
焼け跡の自宅に戻り愛着のあるミシンがぽつんと転がっているのを見ていると午後の三時ごろかお父さんが駆けつけ、やがて残りの工場に挺身隊で働きに出ていた姉さんも帰ってきて父娘3人淡々の再会、「生きているだけでいい」という父親、聞いていて私も目頭が熱くなりました。
母親と弟たちが疎開している宮城県へ向かう途中、大岡川でハシケに乗って溺死《でき死》者を引き上げているのを見ても刺激を感じず黙々と歩いていたとのこと。ただ疎開先に伺うバスの中で、焼け出された父娘3人の惨めな姿をシゲシゲと見つめる田舎の人のつめたい目を恨めしく思いましたと嘆いていました。
(聞き手 清田 喜六 昭和6《1931》年生)
逗子市 小菅 イネ(大正13《1924》年生)
(あらすじ)
昭和20年、私は22歳で洋裁の勉強をしていてデザイナーになるのが夢たった。高価なミシンも買ってもらい夢に燃えていた。5月29目の朝9時少し前、父も妹も出かけていて私一人だった。いつもは朝にはなかった警戒警報がすぐに空襲警報に変わり、飛行機の轟音《=ごうおん》がした。外に出てみたらすぐ近くに低く飛行機が飛んでいて、乗っている人の顔も見えた。と同時に近所に焼夷弾《しょういだん》が落とされた。夕焼けのように真っ赤に燃えていた。小学校に避難したら、海岸に逃げろ。
海は隠れるところがなかった。小さな船にすがって身を隠していたが、砂浜にブスブスと爆弾が刺さった。じっとしていられなくて、リュックも捨てて海の中へ歩いて入った。次から次へと飛行機が飛んで行き、パラパラと爆弾を落としているのが見えた。とても長い時間に感じた。攻撃が去ったサイレンで我に返った。海から上がったら、町が全部燃えていた。周りにも人はいたと思うが、一人ぼっちになってしまった気がした。怖くて仕方ないはずなのに、当たり前の様に死体を見て小学校へ行った。
そこでやっと大勢の人がいることに気づいた。講堂の隅でじっとボーっとしていた。動く気力もなかった。 しばらくして家を見に行ったら何もかもなくなっていて、ミシンが倒れていた。あんなに大切だったのに、それをさわりもしなかった。父と妹が帰ってきて、3人で泣いた。それから小学校で過ごしたが、皆無言で、私は言葉が出なくなっていた。涙も出なかった。
(お話を聞いて)
小菅さんはゆめクラブ逗子の広報紙3号の戦後60年寄稿特集に「思い出のリュックサック」一私の命と引き替えにーと題して投稿されております。今回は横浜空襲の様子をもう少し、くわしくお話して頂くようにお願いしたわけです。
家で友人が来るのを待っていた昭和20年5月29目の午前9時前に空襲警報は鳴ったのでした。外に出て何気なく空を見上げると見慣れない飛行機が超低空飛空で銭湯の真上から私にむかってくるように通り過ぎると近くの家に焼夷弾が落ち一面火の海になった。
家の中に飛び込んだ、すごく静寂で落ち着いて鴨居《かもい》にかかっていた両陛下のお写真を見た事を覚えていました。
海へ逃げろ!との声で海岸へ行き小船の陰に隠れていたが大勢の人々が集まってきて危険だったので海の中へ入り首まで浸って、次から次へとやってくるB29《=爆撃機》を見て横浜の市街地を見ていたわけです。
空襲も終わり一人小学校へ向かう途中、小学生が全身火傷を負って苦しんでいるのを見たり、逃げ後れた人が走る姿のまま亡くなっているのを見ながら焼け残った講堂へ行った。
講堂の隅で一人呆然として死体が搬入されるのを見たり負傷者の救護を見ていたと言っています。
焼け跡の自宅に戻り愛着のあるミシンがぽつんと転がっているのを見ていると午後の三時ごろかお父さんが駆けつけ、やがて残りの工場に挺身隊で働きに出ていた姉さんも帰ってきて父娘3人淡々の再会、「生きているだけでいい」という父親、聞いていて私も目頭が熱くなりました。
母親と弟たちが疎開している宮城県へ向かう途中、大岡川でハシケに乗って溺死《でき死》者を引き上げているのを見ても刺激を感じず黙々と歩いていたとのこと。ただ疎開先に伺うバスの中で、焼け出された父娘3人の惨めな姿をシゲシゲと見つめる田舎の人のつめたい目を恨めしく思いましたと嘆いていました。
(聞き手 清田 喜六 昭和6《1931》年生)
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編集者 (代理投稿)