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『肉声史』 戦争を語る (33)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (33)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/9/14 7:20
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 「悲しかった弟のような初年兵の死」

 大磯町 宮代 竹次郎(大正8《1919》年生)

 (あらすじ)

 トランクに身の回りの物入れて、赤紙《あかがみ=軍の召集令状》に備えていた。軍需工場で飛行機のエンジンを作っていたので、召集が来てもすぐ出かけられるようにしていた。中支部隊の無線通信員だと判断して、現役で負傷した前の部隊よりは楽かなと思った。東京の8部隊へ入隊し、診察してくれた軍医が、偶然徴兵検査してくれた人だった。 「みぞおち貫通の傷でよく帰ってきたな。必ず国で面倒みる。心配するな」と言ってくれた。
 8部隊には私を含め兵長が6人いた。誰も戦地経験なく、傷痍軍人だった私に皆気を使ってくれた。起床ラッパにも「いいから寝てろ」下士官も「いいよ、寝てろ」。演習にも勤務にも出ず、食事は持ってきてくれる。下へも置かない扱いだった。現役では昭和14《1939》年から17年まで3年半シナ《支那=中国》へ行って、満期で帰ってきた。怖いというより もうお終いかなと思ったのは、敵が近くの部落に入ったというので、軽武装で行ったら敵が多く、包囲されそうになった時。戦死した兵と負傷兵を引きずってコーリャン《もろこし》畑に逃げ込んで助かった。敵との戦いは気が立っているから怖くないが、夜突然呼び出されて捕虜を処刑しろと言われた時は慌てた。戦友が死んだことは悲しかった。その兵の思い出話をしながら、二晩中交代で死体を焼く。頭と腹がなかなか焼けない。自分に付いていた弟みたいな初年兵が死んだ時も悲しかった。シナから帰って列車が大磯を通る時は嬉しかった。今の若い男には靖国《神社》参拝等で気持ちを凛々《りり》しく持ってほしい。

(お話を聞いて)

 臨時の取材者として、私も、戦時中、内地での食糧難や、空襲などの体験者の一人でもあります。
 宮代さんには、以前から色々と戦地や、内地でのお話を伺ってはいましたが、今回取材での、細やかな中身のお話は、初めてでした。特に印象に残ったことは、①とても悲しかったこと。すごく、②うれしかった事。でした。
 ①は、親しかった戦友が戦死され、葬るために、マキで火葬するという話。数人で交換で焼くのだが、頭と腹の部分が焼けにくく、棒で返しながらするんだけど、と。

 ②は、内地へ帰って来たとき、列車が故郷の小田原駅に臨時停車、じっとしておれない心境の語り等。何より、「家族や親友への思う心」「絆」。今の私達も大切な、「心」を改めて感じた。
 
 (聞き手 梅田喜代志 昭和8《1933》年生)

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編集者 (代理投稿)

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