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『肉声史』 戦争を語る (51)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (51)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/10/3 6:49
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
足柄上ブロック

 「防空壕の中、ひとり怯《おび》えて」

  南足柄市 銀持 和子(大正14《1925》年生)

 (あらすじ)

 大東亜戦争《=太平洋戦争》開戦時は学生だったので、挺身隊《ていしんたい=勤労奉仕団体》として軍の仕事をしていた。その後、富士フイルムに就職,業務部資材課に配属され、材料許可のため国の各省に並んだ。その並んでいる最中に空襲警報で避難、また改めて並び直した。
 空襲が激しくなり、妹は福島へ学童疎開《=空襲を避けるため都会の児童を安全な地域に移動させた》し母と弟は長野へ、父と私は家に残った。食べ物がなく困った。父は警防団として町を見回っていた。私は母の着物を持って埼玉の農家へ食料と交換に行った。お米はなかったが、さつま芋や小豆《あずき》には換えてもらえた。帰りには警官隊のいない一駅先まで歩いた。
 さらに空襲が激しくなって各家に防空壕《=爆撃から身を守るため地中に掘った穴ぐら》を掘ることになり、畳を上げて一人用の防空壕を掘った。夜は灯火管制で薄暗い中、父が見回りに出てしまうと、私は防空壕の中、一人でおびえていた。そして東京大空襲。急襲だったので私は会社にいて、防空壕で真っ赤な空を見上げていた。家も焼かれ、焼け野原になった。 2、3日は煙が燻っていた。南千住の伯父達が隅田川に逃げたと聞いたが、未だに消息はわからない。私は小田原勤務になり、父は残ると言ったので一人で小田原へ。その後終戦。10月頃家族が家に帰った。戦時中は食べることが幸せだと思っていた。生きがいだった。会社帰りに上野の地下で雑炊を食べて帰った。1杯5銭位だったと思う。今の500円位かな。それでも沢山並んでいた。
 戦争が終わって一番ホッとしたのは、電気が点いて明るくなったこと。進駐軍《=他国に進軍してそこにとどまっている軍隊》が来て社会がガラッと変わった。

 (お話を聞いて)

 祖母の話を聞いて、今は何処《どこ》に行っても色々な食べ物がある、いつ爆弾が落とされるという恐怖が無い今現在、このことが六十年前にあったとは教科書、TV、映画などで知っていただけでした。身近な祖母の話を聞いて、背筋がゾットする思いをしました・・・身内が亡くなったり、毎日恐怖がつきまとったり、食べ物が無かったり、今を生きている私では、絶対に耐えられない生活だと思いました。前線だけが戦争じゃないんだなって、話しを聞いて思いました。戦争の話を聞いて、どれだけ大変な思い・・・どれだけ辛い思いをしたのか心にしみました、でも戦争未体験者の私はどうしても理解は出来ませんでした・・・祖母の話し方、話している時の顔を見ていると、その当時の人々の気持ちになれたような実感がありました。
 録音後、祖母は何度も「辛かった・・・」と、ため息を吐きながら何度も言っていました、いつも明るく元気な祖母が、僕が今まで見たことの無いような悲しい顔に一瞬なったのが、とても印象深かったです。戦争が起こらないように世界中の人々が手を握り合う時代が来ることを祈っていきたいと強く思いました。
 また、祖母のような戦争経験者の体験を次の世代にも話してあげたいと思っています。
 その当時の思いを心の奥底にしまい、いつも明るく元気な祖母をいつまでも大切にしていきたいと思いました。       

 (聞き手 剣持 允樹 昭和54《1979》年11月生)

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編集者 (代理投稿)

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