『肉声史』 戦争を語る (29)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
「聖戦などなし 失うものあまりに多し」
伊勢原市 小林 繁雄(大正10《1921》年生)
(あらすじ)
昭和18年3月に入隊が決まった。当時、同じ職場に恋人がいたが自分は戦争に行く身で、いつまでも思いを残させてはいけないと抱きしめたい気持ちを堪えた。3月10日第3師団の通信隊に入隊。 内務班で衣服が支給された。軍服2着、下着2枚、雨合羽、外套、編み上げ革靴2足、靴下、軍帽。厳しい訓練は覚悟していたが、古年兵の意地悪には苦労した。演習からくたくたになって帰ると、衣服がぐちゃぐちゃになり、枕に落書きされていた。この落書きが洗ってもなかなか落ちず、落ちないままだと枕くわえて犬の真似をさせられた。ビンタは日常茶飯事《にちじょうさはんじ=いつものこと》だが、教育係の上等兵に目をつけられたのが大変だった。電気の試験で上等兵が答えられない問題を私が解いたら、呼び出されて気絶するまで殴られた。除隊するまでそういう扱いだった。
外地で無人の部落に宿営することになったが、夜に手相弾が投げ込まれて戦死者が出た。後に犯人の中国人が捕まった。初年兵の肝試しだと処刑係に私が指名された。銃剣で左胸を突いたがとどめをさせず、人目を盗んで血だらけの捕虜を納屋《なや》へ運んだ。しばらくしたらいなくなっていた。また、みぞれの晩に機材を運ぶための馬の番をさせられた。夜行軍だったのでつい寝入ってしまい、ふと目覚めると2頭のうちの1頭がいない。慌てて捜すと、深田でもがいていた。私も飛び込んだが、馬と一緒に沈んでいく。 その時、小さい頃のおじさんの手綱さばきを思い出し、何とか助かった。その後、マラリアで入院もした。戦争の後に残るのは廃墟《はいきょ》と苦しい生活だけ。私達は聖戦だと信じていたが、かけがえのないものをたくさん失った。
(お話を聞いて)
語り手の小林さんとは、同じ老人クラブでご一緒している仲間で、外地での戦争体験者と私が推薦して今回、色々と貴重な体験を聞かせて貰いましたが、年齢は84歳とは思えぬ元気さと記憶力の良さに終始感心させられながら聞かせて頂きました。
限られた時間(60分)でしたので、聞き漏らしたことも有ったようですが、その中で特に私が感銘を受けた点について書いてみます。小林さんは旧制中学(現在の高校)の電気化を卒業されたキャリアを生かされ、入隊前までは東京M電機メーカーに勤められ、軍隊でも通信兵に編入され、ほかの兵科同様、厳しい新兵教育を受けられたが、日本陸軍軍人として、立派にお国のためにつくそうと日夜頑張られ、常に「積極的に行動」されたことが、皮肉にも上官(0上等兵)の反感をかい、以後執拗《しつよう》なまでに酷い仕打を受ける破目になりました。「積極的な行動」を詳しく記述できませんが、小林さんが上官に正解できなかった電気の計算問題を簡単に解いたことで「恥をかかされた」と上官の憤慨《ふんがい》を買い、何回も嫌がらせを受けたということです。霧の降る寒い夜誰もが嫌がる二頭の馬当番を指名され、中一頭が姿を消したときに驚き、普通新兵では任命されない歩哨《ほしょう=警戒・監視の任にあたる》に立たされたときの責任の重大さに身の縮む思いがしたことなどがその実例です。
そうした試練に何度か「死」を覚悟したが、その度毎に瞼に「母」の顔が浮かんできてそれを思いと止めさせられましたが、生憎と「マラリア」にかかり、足も上がらぬ重症になるまで行軍を続けたが、流石に耐えられなくなり入院生活を送り、満足の行く御奉公が出来ず敗戦を迎えたことが、今でも残念に思っている。最後に、戦争を知らない人達に対するメッセージはと聞くと、再びあの忌まわしい戦争の無い平和な日本であって欲しいと誰もが叫ぶことは勿論、何度かの自殺を思いとどまった経験から「命」の大切さを強調されていた。
(聞き手 川口博 昭和2《1927》年生)
伊勢原市 小林 繁雄(大正10《1921》年生)
(あらすじ)
昭和18年3月に入隊が決まった。当時、同じ職場に恋人がいたが自分は戦争に行く身で、いつまでも思いを残させてはいけないと抱きしめたい気持ちを堪えた。3月10日第3師団の通信隊に入隊。 内務班で衣服が支給された。軍服2着、下着2枚、雨合羽、外套、編み上げ革靴2足、靴下、軍帽。厳しい訓練は覚悟していたが、古年兵の意地悪には苦労した。演習からくたくたになって帰ると、衣服がぐちゃぐちゃになり、枕に落書きされていた。この落書きが洗ってもなかなか落ちず、落ちないままだと枕くわえて犬の真似をさせられた。ビンタは日常茶飯事《にちじょうさはんじ=いつものこと》だが、教育係の上等兵に目をつけられたのが大変だった。電気の試験で上等兵が答えられない問題を私が解いたら、呼び出されて気絶するまで殴られた。除隊するまでそういう扱いだった。
外地で無人の部落に宿営することになったが、夜に手相弾が投げ込まれて戦死者が出た。後に犯人の中国人が捕まった。初年兵の肝試しだと処刑係に私が指名された。銃剣で左胸を突いたがとどめをさせず、人目を盗んで血だらけの捕虜を納屋《なや》へ運んだ。しばらくしたらいなくなっていた。また、みぞれの晩に機材を運ぶための馬の番をさせられた。夜行軍だったのでつい寝入ってしまい、ふと目覚めると2頭のうちの1頭がいない。慌てて捜すと、深田でもがいていた。私も飛び込んだが、馬と一緒に沈んでいく。 その時、小さい頃のおじさんの手綱さばきを思い出し、何とか助かった。その後、マラリアで入院もした。戦争の後に残るのは廃墟《はいきょ》と苦しい生活だけ。私達は聖戦だと信じていたが、かけがえのないものをたくさん失った。
(お話を聞いて)
語り手の小林さんとは、同じ老人クラブでご一緒している仲間で、外地での戦争体験者と私が推薦して今回、色々と貴重な体験を聞かせて貰いましたが、年齢は84歳とは思えぬ元気さと記憶力の良さに終始感心させられながら聞かせて頂きました。
限られた時間(60分)でしたので、聞き漏らしたことも有ったようですが、その中で特に私が感銘を受けた点について書いてみます。小林さんは旧制中学(現在の高校)の電気化を卒業されたキャリアを生かされ、入隊前までは東京M電機メーカーに勤められ、軍隊でも通信兵に編入され、ほかの兵科同様、厳しい新兵教育を受けられたが、日本陸軍軍人として、立派にお国のためにつくそうと日夜頑張られ、常に「積極的に行動」されたことが、皮肉にも上官(0上等兵)の反感をかい、以後執拗《しつよう》なまでに酷い仕打を受ける破目になりました。「積極的な行動」を詳しく記述できませんが、小林さんが上官に正解できなかった電気の計算問題を簡単に解いたことで「恥をかかされた」と上官の憤慨《ふんがい》を買い、何回も嫌がらせを受けたということです。霧の降る寒い夜誰もが嫌がる二頭の馬当番を指名され、中一頭が姿を消したときに驚き、普通新兵では任命されない歩哨《ほしょう=警戒・監視の任にあたる》に立たされたときの責任の重大さに身の縮む思いがしたことなどがその実例です。
そうした試練に何度か「死」を覚悟したが、その度毎に瞼に「母」の顔が浮かんできてそれを思いと止めさせられましたが、生憎と「マラリア」にかかり、足も上がらぬ重症になるまで行軍を続けたが、流石に耐えられなくなり入院生活を送り、満足の行く御奉公が出来ず敗戦を迎えたことが、今でも残念に思っている。最後に、戦争を知らない人達に対するメッセージはと聞くと、再びあの忌まわしい戦争の無い平和な日本であって欲しいと誰もが叫ぶことは勿論、何度かの自殺を思いとどまった経験から「命」の大切さを強調されていた。
(聞き手 川口博 昭和2《1927》年生)
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編集者 (代理投稿)