『肉声史』 戦争を語る (28)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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「敗戦、点灯、平和を感じたひと時」
伊勢原市 倉前 敏子(大正10《1921》年生)
(あらすじ)
昭和13年佐賀県看護養成学校入学、15年国家試験合格。市内の病院に勤務の後、17年日赤陸軍病院へ。昭和20年以降は陸軍病院に隣接する48連隊めがけてB29《アメリカの長距離爆撃機》の爆撃が多くなった。私達看護婦は警戒警報で出動命令となり、病院に赴くことになっていたので、自分も雨戸が閉ざされた真っ暗な街中を病院へと急いだ。48連隊が爆撃を受ける度にどんどん負傷兵が病院に運ばれてくる。一手術室に黒いカーテンを引き、ローソクの明かりで手術が行われた。
たくさんの方が亡くなった。ある時赤痢が流行って、30名程の患者が1日に30、40回の下痢をする。点滴といっても今のように細い針ではなく、布団針のような太い針でリンゲルを打つ。それでも皆助かった。ダメだったのは結核患者。栄養失調と特効薬がなかったから。戦後、赤痢から生還した兵士に偶然会ってお礼を言われた時は、看護婦になってよかったと思った。
8月15日の敗戦で町々に明かりが灯り、一度に明るくなった。平和の良さをしみじみと感じた。8月7日の原爆後は長崎から被爆患者が佐賀へ運ばれてきた。耳たぶや手の甲など、被爆したところにウジ虫が湧いていた。それを一つ一つピンセットで取った。戦後は食糧難の為、隣の練兵所で農作業に従事し、200人余りの患者の食糧も補った。昭和20年秋に陸軍病院は国立病院となり、私は22年に結婚で退職した。私の青春時代は生きていくので精一杯だった。今の若者は平和な時代に感謝してほしい。
(お話を聞いて)
戦時下女性体験、看護婦を目指した動機 幼児虚弱、近隣医院での看護婦の献身さに感動、女性の職業、教師、看護婦看護学校入学 昭和15年資格取得佐賀市内2病院、勤務3年 昭和19年日本赤十字病院正看採用佐賀陸軍病院勤務、傷病兵の看護、昭和20年6月~7月隣接地48連隊がB29爆撃を受ける。警報発令にて、軍医看護婦被爆者救護。陸軍も空爆波及し援護活動従事。
特に8月7日の長崎市原爆被災は想像を絶する。長崎より死傷者が搬送され、身体各部損傷箇所にウジ虫が発生、ピンセットで除去する無残な状況は想像外。搬送された方々以外の重傷者は現地でどのような治療が施されたのか、原爆の縮図を語られました。 食料自給自足のため隣接敷地に下肥《しもごえ=人の糞尿を肥料にしたもの》を運び農作業にも従事。
青春時代はモンペのみ。昭和22年国立病院に改編を機に結婚、退職された由でした。
「銃後の守り」「欲しがりませんは勝つまでは」の言葉に惑わされ献身的な努力は、終戦で一切無に帰しました。戦争の悲惨さは言語に尽せません、平和こそ何物にも変えがたい貴重な宝物であることが実感されました。
(聞き手 吉原信司 大正13《1924》年生)
伊勢原市 倉前 敏子(大正10《1921》年生)
(あらすじ)
昭和13年佐賀県看護養成学校入学、15年国家試験合格。市内の病院に勤務の後、17年日赤陸軍病院へ。昭和20年以降は陸軍病院に隣接する48連隊めがけてB29《アメリカの長距離爆撃機》の爆撃が多くなった。私達看護婦は警戒警報で出動命令となり、病院に赴くことになっていたので、自分も雨戸が閉ざされた真っ暗な街中を病院へと急いだ。48連隊が爆撃を受ける度にどんどん負傷兵が病院に運ばれてくる。一手術室に黒いカーテンを引き、ローソクの明かりで手術が行われた。
たくさんの方が亡くなった。ある時赤痢が流行って、30名程の患者が1日に30、40回の下痢をする。点滴といっても今のように細い針ではなく、布団針のような太い針でリンゲルを打つ。それでも皆助かった。ダメだったのは結核患者。栄養失調と特効薬がなかったから。戦後、赤痢から生還した兵士に偶然会ってお礼を言われた時は、看護婦になってよかったと思った。
8月15日の敗戦で町々に明かりが灯り、一度に明るくなった。平和の良さをしみじみと感じた。8月7日の原爆後は長崎から被爆患者が佐賀へ運ばれてきた。耳たぶや手の甲など、被爆したところにウジ虫が湧いていた。それを一つ一つピンセットで取った。戦後は食糧難の為、隣の練兵所で農作業に従事し、200人余りの患者の食糧も補った。昭和20年秋に陸軍病院は国立病院となり、私は22年に結婚で退職した。私の青春時代は生きていくので精一杯だった。今の若者は平和な時代に感謝してほしい。
(お話を聞いて)
戦時下女性体験、看護婦を目指した動機 幼児虚弱、近隣医院での看護婦の献身さに感動、女性の職業、教師、看護婦看護学校入学 昭和15年資格取得佐賀市内2病院、勤務3年 昭和19年日本赤十字病院正看採用佐賀陸軍病院勤務、傷病兵の看護、昭和20年6月~7月隣接地48連隊がB29爆撃を受ける。警報発令にて、軍医看護婦被爆者救護。陸軍も空爆波及し援護活動従事。
特に8月7日の長崎市原爆被災は想像を絶する。長崎より死傷者が搬送され、身体各部損傷箇所にウジ虫が発生、ピンセットで除去する無残な状況は想像外。搬送された方々以外の重傷者は現地でどのような治療が施されたのか、原爆の縮図を語られました。 食料自給自足のため隣接敷地に下肥《しもごえ=人の糞尿を肥料にしたもの》を運び農作業にも従事。
青春時代はモンペのみ。昭和22年国立病院に改編を機に結婚、退職された由でした。
「銃後の守り」「欲しがりませんは勝つまでは」の言葉に惑わされ献身的な努力は、終戦で一切無に帰しました。戦争の悲惨さは言語に尽せません、平和こそ何物にも変えがたい貴重な宝物であることが実感されました。
(聞き手 吉原信司 大正13《1924》年生)
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編集者 (代理投稿)