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『肉声史』 戦争を語る (13)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (13)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/8/14 7:29
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 「とにかく戦争は不自由な生活です」

 三浦市 佐藤 和子(昭和7《1932》年生)

 (あらすじ)

 私はシナ事変《=日中戦争にたいする日本側の呼称》と満州事変《注1》の間に生まれた。尋常高等小学校《注2》1年生の時に紀元2600年で、歌にも歌われ、夜、提灯《ちょうちん》行列で大勢の人がお祝いをした。福島で生まれたが、不景気で父の仕事がなく小学校2年生に入る前に横浜に引っ越してきた。
 昭和16年12月8日に大東亜戦争が始まり、「欲しがりません、勝つまでは」で女性はパーマネント禁止、食料は配給制で米は食べられず、衣類も衣料切符制《注3》となった。学校は国民学校となり、上級生は勤労動員《=勤労目的のために人を集中する》として働きに出ていたので、私達が学校で雑炊《ぞうすい》を作った。講堂の脇の倉庫が炊事場となり、大きなカマドが作られ、大鍋に米、野菜、豚肉を入れて作った。
 豚は学校で残飯をやって飼育していた。学校の窓ガラスには紙で×印が貼られた。昭和19年8月に入って学童疎開《注4》が始まった。

 私は自分が生まれた母の生家に一人で縁故疎開した。疎開先は大百姓だったので農作業の手伝いをした。姪をおぶって授業受けたこともあった。学校菜園に肥料をやる途中、飛行機の編隊が飛んできた。友人が「B29だ。早く隠れて」。体の震えが止まらなかった。町に軍需工場があって、落下傘の部品を作っていたと聞いた。爆弾が落とされ、夜まで煙が高く上っていた。

 昭和20年の東京大空襲で横浜の家族は父と姉を残して福島へ。その後の横浜大空襲で家は焼け、父と姉は着の身着のまま帰ってきた。8月15日、玉音放送《=天皇が国民に対しての放送》を皆で聞いた。戦争は辛い思い出しかない。体験者は一言でもいいから次世代に語り継ぐべきだと思う。

 (お話を聞いて)

 今回、戦争体験のお話をうかがうことになり思うことは、戦後60年を過ぎ、悲惨な状況であったときのことが、だんだんと風化しつつあると言う事です。メディアは、そのときだけで終わってしまいます。とても残念なことです。戦争がいかに残酷なことかを、身をもって体験された方が実際に語っていかれる事はすばらしいごとだと思います。
 21世紀になった今でも、世界では、「テロ」《注5》が起こり、平気で核兵器が作り出されています。戦争の恐ろしさは、日本が一番わかっているはず。生きるために口々をすごす子供時代は、戦後生まれの私たちには想像もつきませんが、二度と同じ過ちを起させないこと、そして今一度、一人一人が、人への思いやり、命の大切さを知る事が必要なのではないでしょうか。

 (聞き手 佐藤美代子 昭和37年生)

注1 満州事変=1931年9月鉄道爆破事件を契機とする日本の中国との戦争翌32年には満州国を樹立、後日中戦争へと進む

注2 尋常高等小学校=旧制の小学校で尋常小学校と高等小学校を併置した学校

注3 衣料切符=配給制度のもとで衣類を買うために必要な切符


注4 学童疎開=太平洋戦争末期に戦争の災禍を防ぐために大都市の児童を農山村地域に集団または個人的に移動した。

注5 テロリズム=政治目的のために暴力あるいはその脅威に訴える

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編集者 (代理投稿)

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