『肉声史』 戦争を語る (55)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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「討伐は軍服でなく中国服で」
中井町 植木孟夫(大正13《1924》年生)
(あらすじ)
小学校入学の年に満州事変《=日本の中国東北部への侵略戦争》、卒業年にシナ事変《=日中戦争に対する日本側の呼称》、その4年後には大東亜戦争《太平洋戦争》と、私達の少年時代は挙国一致で戦争に勝つ為に努力していた。昭和19《1944》年12月1日東部63部隊に入隊。私達は最後の外地要員として北シナ派遣となり釜山へ。列車で北上し、3042部隊第1中隊へ。3ケ月の厳しい軍隊生活。夜間訓練もあり、歩哨《ほしょう=警戒、監視の任務》にも立った。
一期の検閲も終わり、ホッとしていたら戦場に出ることになった。各地の分遣隊の応援に行き、負傷者を病院に送った。その後は討伐へ行くことになり、軍服を着ずにシナ服に着替えて出発。 行く先の集落には、中国共産党の民兵が多く、いつ襲撃を受けるか分からない危険な地域だった。遂に攻撃を受け、交戦して進撃して行った。食事等は現地調達。翌朝の朝食を夕方に作っておき、朝3時に起床して進撃した。負傷者や戦死者も出て、死体は火葬し遺骨で持って行った。6月26日に私は地雷を踏んで負傷し、担架で野戦病院《=戦場の後方に設置し、傷病兵を収容して治療をする》に運ばれた。手当てを受けて北シナの病院に入院。 院内で終戦を迎え、10月には退院したが、帰る隊がなかったので病院の警備隊として毎日歩哨に立った。時には八路軍《はちろ軍=中国共産党軍》が来て、八路軍に来ないかと誘われることもあった。私は傷が完治していなかったので、早目に帰ることになった。12月初めに病院を出て、青島に向かって15日間野宿をしながら歩いて行った。港で引き上げ船を待ち、30日に米軍の船が来て、昭和21年1月1日佐世保に到着。2日に復員列車に乗って帰路に着いた。これからは平和で住みよい日本であってほしい。
「つらい軍隊生活、思い出すは母の顔」
大井町 匿名(昭和3《1928》年生)
(あらすじ)
志願兵《=みずから志願して隊に入る》として愛知の第3岡崎海軍航空隊へ。ここは実施部隊で艦上攻撃機が飛び立ったが、敵機の数の方が多く、味方の飛行機が少なかったので、空襲となると飛行機をかくまう方が早かった。 この頃は練習生で一番下の階級、数えの18歳だった。200人が4つの分隊に分かれていて同期生は800人だった。第1、第2が教育部隊で、私のいた第3が実戦部隊だった。敵機は名古屋の工場を爆撃した帰りに、私らの航空隊の上空を通過し、残っている爆弾を皆落としていった。爆弾が落ちた後は直径約10m、深さ5m程の穴が開いていた。P51の空襲で兵舎をやられた。大きな飛行機だった。
悔しかったことは、太いバットで尻を殴られたこと。気絶した私にタライの水をかけて、目覚めて立つとまた殴る。痛くて、夜仰向けで寝れなかった。
悲しかったことは全て。とにかく家に帰りたくて、便所でよく泣いていた。航空隊だったから食べ物は良よかった。ささやかな喜びは、家からの手紙。検閲を通った物だったが嬉しかった。楽しみば食事だけ。16人1班で、班は年齢の順に1~6班まで編成された。私のいた1班が一番年上で、6班は昭和6年生まれ位。
考えるのは母親のことばかり。岡崎で教育停止になり、第一線につけと言われて横須賀の工作学校へ転勤した。そこで配置する所がなく、お寺へ駐留していた時に終戦。ところがその後また沼津の工作学校へ。昭和20年の年末に解散。退職金が当時のお金で20万5000円出た。
(お話を聞いて)
人間というものは、心に深く刻まれた事柄を何年経っても鮮明に記憶に残すものである。
事実、今回伺ったお話の様子は、戦後60年以上も経過しているにも関わらず。つい昨日の事のように語られた。
特に印象に残ったのは、親の反対を押し切り志願兵として、わずか17歳で出兵した様である。現代の若者では考えられない事だろう。
当時の赴任先での辛い体験。少しでも重量を減らす為に残りの爆弾を落下させながら間近に迫るP-51やB-29戦闘機に、悔しい気持ちを胸に抱きながら防空壕へと逃げ込む様子は悲惨で、日々緊迫感、恐怖感に襲われる日常を送っていたのだな、と思うと言葉が出なかった。
また、辛い状況でのささやかな楽しみである食事や家族との手紙のやり取りも厳しく制限されていた。そんな中で、「早く家に帰りたい。」という気持ちを押し殺し、“国の為に”と耐え続けた精神は計り知ることができない。
「戦争は、国と国とのケンカで、そこには必ず勝ち負けがある。戦争なんてやるもんじゃない。」とおっしゃった。私達の世代では漠然と“戦争はやってはいけない事”と思ってはいたが、実際に体験した方の悲惨な状況を伺うと、改めてその言葉がずっしりと重く感じる。
現代社会では、近隣諸国の軍拡や核開発などが問題視される中、今回の“嫌でも鮮明に記憶に残る戦争”の貴重な体験談を伺い、改めて若い世代へ受け継いでいかなければならない、忘れてはならない事だと痛感した。
(聞き手 匿名 昭和37《1962》年生)
中井町 植木孟夫(大正13《1924》年生)
(あらすじ)
小学校入学の年に満州事変《=日本の中国東北部への侵略戦争》、卒業年にシナ事変《=日中戦争に対する日本側の呼称》、その4年後には大東亜戦争《太平洋戦争》と、私達の少年時代は挙国一致で戦争に勝つ為に努力していた。昭和19《1944》年12月1日東部63部隊に入隊。私達は最後の外地要員として北シナ派遣となり釜山へ。列車で北上し、3042部隊第1中隊へ。3ケ月の厳しい軍隊生活。夜間訓練もあり、歩哨《ほしょう=警戒、監視の任務》にも立った。
一期の検閲も終わり、ホッとしていたら戦場に出ることになった。各地の分遣隊の応援に行き、負傷者を病院に送った。その後は討伐へ行くことになり、軍服を着ずにシナ服に着替えて出発。 行く先の集落には、中国共産党の民兵が多く、いつ襲撃を受けるか分からない危険な地域だった。遂に攻撃を受け、交戦して進撃して行った。食事等は現地調達。翌朝の朝食を夕方に作っておき、朝3時に起床して進撃した。負傷者や戦死者も出て、死体は火葬し遺骨で持って行った。6月26日に私は地雷を踏んで負傷し、担架で野戦病院《=戦場の後方に設置し、傷病兵を収容して治療をする》に運ばれた。手当てを受けて北シナの病院に入院。 院内で終戦を迎え、10月には退院したが、帰る隊がなかったので病院の警備隊として毎日歩哨に立った。時には八路軍《はちろ軍=中国共産党軍》が来て、八路軍に来ないかと誘われることもあった。私は傷が完治していなかったので、早目に帰ることになった。12月初めに病院を出て、青島に向かって15日間野宿をしながら歩いて行った。港で引き上げ船を待ち、30日に米軍の船が来て、昭和21年1月1日佐世保に到着。2日に復員列車に乗って帰路に着いた。これからは平和で住みよい日本であってほしい。
「つらい軍隊生活、思い出すは母の顔」
大井町 匿名(昭和3《1928》年生)
(あらすじ)
志願兵《=みずから志願して隊に入る》として愛知の第3岡崎海軍航空隊へ。ここは実施部隊で艦上攻撃機が飛び立ったが、敵機の数の方が多く、味方の飛行機が少なかったので、空襲となると飛行機をかくまう方が早かった。 この頃は練習生で一番下の階級、数えの18歳だった。200人が4つの分隊に分かれていて同期生は800人だった。第1、第2が教育部隊で、私のいた第3が実戦部隊だった。敵機は名古屋の工場を爆撃した帰りに、私らの航空隊の上空を通過し、残っている爆弾を皆落としていった。爆弾が落ちた後は直径約10m、深さ5m程の穴が開いていた。P51の空襲で兵舎をやられた。大きな飛行機だった。
悔しかったことは、太いバットで尻を殴られたこと。気絶した私にタライの水をかけて、目覚めて立つとまた殴る。痛くて、夜仰向けで寝れなかった。
悲しかったことは全て。とにかく家に帰りたくて、便所でよく泣いていた。航空隊だったから食べ物は良よかった。ささやかな喜びは、家からの手紙。検閲を通った物だったが嬉しかった。楽しみば食事だけ。16人1班で、班は年齢の順に1~6班まで編成された。私のいた1班が一番年上で、6班は昭和6年生まれ位。
考えるのは母親のことばかり。岡崎で教育停止になり、第一線につけと言われて横須賀の工作学校へ転勤した。そこで配置する所がなく、お寺へ駐留していた時に終戦。ところがその後また沼津の工作学校へ。昭和20年の年末に解散。退職金が当時のお金で20万5000円出た。
(お話を聞いて)
人間というものは、心に深く刻まれた事柄を何年経っても鮮明に記憶に残すものである。
事実、今回伺ったお話の様子は、戦後60年以上も経過しているにも関わらず。つい昨日の事のように語られた。
特に印象に残ったのは、親の反対を押し切り志願兵として、わずか17歳で出兵した様である。現代の若者では考えられない事だろう。
当時の赴任先での辛い体験。少しでも重量を減らす為に残りの爆弾を落下させながら間近に迫るP-51やB-29戦闘機に、悔しい気持ちを胸に抱きながら防空壕へと逃げ込む様子は悲惨で、日々緊迫感、恐怖感に襲われる日常を送っていたのだな、と思うと言葉が出なかった。
また、辛い状況でのささやかな楽しみである食事や家族との手紙のやり取りも厳しく制限されていた。そんな中で、「早く家に帰りたい。」という気持ちを押し殺し、“国の為に”と耐え続けた精神は計り知ることができない。
「戦争は、国と国とのケンカで、そこには必ず勝ち負けがある。戦争なんてやるもんじゃない。」とおっしゃった。私達の世代では漠然と“戦争はやってはいけない事”と思ってはいたが、実際に体験した方の悲惨な状況を伺うと、改めてその言葉がずっしりと重く感じる。
現代社会では、近隣諸国の軍拡や核開発などが問題視される中、今回の“嫌でも鮮明に記憶に残る戦争”の貴重な体験談を伺い、改めて若い世代へ受け継いでいかなければならない、忘れてはならない事だと痛感した。
(聞き手 匿名 昭和37《1962》年生)
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編集者 (代理投稿)