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『肉声史』 戦争を語る (17)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (17)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/8/19 6:36
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 「勝ち組はお風呂、負け組みはランニング」

 葉山町 戸田 康治(大正14《1925》年生)

 (あらすじ)

 昭和18年、海軍第6期予備練習生の願書を親にも相談せず提出し、品川の海軍経理学校で受験。 10月頃合格通知が届き、翌年の1月11日に追浜《横須賀市》海軍航空隊に入隊するように記載されていた。 親に話すと「時節柄、やむを得ない」と追浜まで送ってくれた。私は48分隊10班の次長を命じられた。班には他に10人いて、全部で12班あった。 48分隊は134名の兵と12名の下士官、隊長1名だった。棒倒し訓練があり、負けた班は飛行場1周、勝った班は風呂へ。また寝るためのハンモックを使った競争もあった。カッター訓練はお尻の皮が剥《む》ける厳しい訓練だった。5月には辻堂海岸《神奈川県》演習実施。2泊3目の演習で、空砲を使用して実践さながらだった。辻堂から追浜までの20kmを走って帰り、遅れると営門が閉められた。その後隊長より1等下士官を命じられ、兵2名を連れて厚木302航空隊へ。7、8名の兵と2名の下士官で、飛行機の電機周りの整備が主な作業だった。そこでは皆各自の感覚だけで調整していてバラつきが出ていた。 
 そこで、国産電機の製作所に出張してサーチャーという金属板を持ち帰り、誰が調整しても同じ状態になった。
 終戦となり、補機室を閉め、全員退出準備にかかった。私は東京・神田にある亡き父の電気工事店に帰った。大手町の旧安田銀行本店復旧工事も手伝い、毎目真っ黒になって仕事した。
 2ヵ月後には営業室が使用できるようになった。後にその縁で銀行に就職した。


 「水上特攻隊 終戦 命助かる」

 葉山町 斎藤 宏壽(大正14年生)

 (あらすじ)

 戦争末期、本土防衛本土決戦が叫ばれる時、私も召集令状を受け取った。学業を半ばにして肉親との別れは残念だった。船舶工兵として入隊し、厳しい軍隊生活が始まった。人権も自由もなく、空腹と喉《のど》の渇きには本当に苦しめられた。第一線部隊に配属され、本土防衛の任に当たった。任務は水上特攻で、舟艇に爆薬を積んで敵の艦船に体当たりすることだった。
 昭和20[年7月27目、隊長より呼び出され、8月17目に出撃との命令を受ける。死は覚悟していたが、その夜はさすがに眠れなかった。毎朝、起床の度に死が一日一日と近づく。
 8月2日面会が許された。夜の明けるのが待ち遠しかった。午後4時、隊長より面会に際しての諸注意を受ける。「最後の面会となるが、死は絶対に口にしてはならない。自分が大切にしている物を渡せば、親は理解する」とのことだった。母の元へと駆け足で行く。本当に嬉しかった。母はただただ笑顔で迎えてくれた。隊長の言われた通り、形見の品を渡したが母は笑顔を絶やさない。後に母は、すぐに分かったが涙を流すわけにもいかず、笑顔で別れたと言っていた。
 8月15目、終戦になり命が肋かった。本当に嬉しかった。 30日に復員し、営門《=陣営、兵営の門》を出た時の解放感は忘れられない。栄養失調の下痢にその後も半年間苦しめられた。昭和22年に兄の戦死が確認された。兄の戦死したニューギニアでは、遺体がまだそのままになっていた。軍隊生活は死ぬ以上の苦しみだったが、味わった人でないと分からない。自分の子や孫にはあの苦しみを味わわせたくない。

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編集者 (代理投稿)

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