『肉声史』 戦争を語る (17)
投稿ツリー
-
『肉声史』 戦争を語る (編集者, 2007/8/9 6:43)
- 『肉声史』 戦争を語る (2) (編集者, 2007/8/9 6:45)
- 『肉声史』 戦争を語る (3) (編集者, 2007/8/9 6:46)
- 『肉声史』 戦争を語る (4) (編集者, 2007/8/9 6:47)
- 『肉声史』 戦争を語る (5) (編集者, 2007/8/9 6:49)
- 『肉声史』 戦争を語る (6) (編集者, 2007/8/9 6:50)
- 『肉声史』 戦争を語る (7) (編集者, 2007/8/9 6:51)
- 『肉声史』 戦争を語る (8) (編集者, 2007/8/9 6:55)
- 『肉声史』 戦争を語る (9) (編集者, 2007/8/10 7:17)
- 『肉声史』 戦争を語る (10) (編集者, 2007/8/11 7:28)
- 『肉声史』 戦争を語る (11) (編集者, 2007/8/12 7:36)
- 『肉声史』 戦争を語る (12) (編集者, 2007/8/13 6:56)
- 『肉声史』 戦争を語る (13) (編集者, 2007/8/14 7:29)
- 『肉声史』 戦争を語る (14) (編集者, 2007/8/16 7:23)
- 『肉声史』 戦争を語る (15) (編集者, 2007/8/17 7:12)
- 『肉声史』 戦争を語る (16) (編集者, 2007/8/18 7:26)
- 『肉声史』 戦争を語る (17) (編集者, 2007/8/19 6:36)
- 『肉声史』 戦争を語る (18) (編集者, 2007/8/20 8:24)
- 『肉声史』 戦争を語る (19) (編集者, 2007/8/21 7:30)
- 『肉声史』 戦争を語る (20) (編集者, 2007/8/22 7:04)
- 『肉声史』 戦争を語る (21) (編集者, 2007/8/24 7:39)
- 『肉声史』 戦争を語る (22) (編集者, 2007/8/25 7:03)
- 『肉声史』 戦争を語る (23) (編集者, 2007/8/26 8:19)
- 『肉声史』 戦争を語る (24) (編集者, 2007/8/27 8:30)
- 『肉声史』 戦争を語る (25) (編集者, 2007/9/6 7:11)
- 『肉声史』 戦争を語る (26) (編集者, 2007/9/7 7:46)
- 『肉声史』 戦争を語る (27) (編集者, 2007/9/8 7:04)
- 『肉声史』 戦争を語る (28) (編集者, 2007/9/9 8:08)
- 『肉声史』 戦争を語る (29) (編集者, 2007/9/10 7:23)
- 『肉声史』 戦争を語る (30) (編集者, 2007/9/11 7:27)
- 『肉声史』 戦争を語る (31) (編集者, 2007/9/12 8:03)
- 『肉声史』 戦争を語る (32) (編集者, 2007/9/13 7:51)
- 『肉声史』 戦争を語る (33) (編集者, 2007/9/14 7:20)
- 『肉声史』 戦争を語る (34) (編集者, 2007/9/16 7:43)
- 『肉声史』 戦争を語る (35) (編集者, 2007/9/17 8:24)
- 『肉声史』 戦争を語る (36) (編集者, 2007/9/18 7:41)
- 『肉声史』 戦争を語る (37) (編集者, 2007/9/19 6:59)
- 『肉声史』 戦争を語る (38) (編集者, 2007/9/20 7:12)
- 『肉声史』 戦争を語る (39) (編集者, 2007/9/21 6:46)
- 『肉声史』 戦争を語る (40) (編集者, 2007/9/22 7:08)
- 『肉声史』 戦争を語る (41) (編集者, 2007/9/24 7:46)
- 『肉声史』 戦争を語る (42) (編集者, 2007/9/24 7:48)
- 『肉声史』 戦争を語る (43) (編集者, 2007/9/25 7:10)
- 『肉声史』 戦争を語る (44) (編集者, 2007/9/26 7:03)
- 『肉声史』 戦争を語る (45) (編集者, 2007/9/27 12:40)
- 『肉声史』 戦争を語る (46) (編集者, 2007/9/28 7:50)
- 『肉声史』 戦争を語る (47) (編集者, 2007/9/29 7:39)
- 『肉声史』 戦争を語る (48) (編集者, 2007/9/30 8:47)
- 『肉声史』 戦争を語る (49) (編集者, 2007/10/1 7:28)
- 『肉声史』 戦争を語る (50) (編集者, 2007/10/2 7:36)
- 『肉声史』 戦争を語る (51) (編集者, 2007/10/3 6:49)
- 『肉声史』 戦争を語る(52) (編集者, 2007/10/4 6:29)
- 『肉声史』 戦争を語る(53) (編集者, 2007/10/5 7:57)
- 『肉声史』 戦争を語る(54) (編集者, 2007/10/6 8:19)
- 『肉声史』 戦争を語る (55) (編集者, 2007/10/7 9:52)
- 『肉声史』 戦争を語る (56) (編集者, 2007/10/8 10:39)
- 『肉声史』 戦争を語る (57) (編集者, 2007/10/9 7:55)
- 『肉声史』 戦争を語る (58) (編集者, 2007/10/10 8:54)
- 『肉声史』 戦争を語る (59) (編集者, 2007/10/11 8:09)
- 『肉声史』 戦争を語る (60) (編集者, 2007/10/12 7:18)
- 『肉声史』 戦争を語る (61) (編集者, 2007/10/13 7:37)
- 『肉声史』 戦争を語る (62) (編集者, 2007/10/14 7:55)
- 『肉声史』 戦争を語る (63) (編集者, 2007/10/15 7:46)
- 『肉声史』 戦争を語る (64) (編集者, 2007/10/16 8:02)
- 『肉声史』 戦争を語る (65) (編集者, 2007/10/20 9:53)
- 『肉声史』 戦争を語る (66) (編集者, 2007/10/21 7:31)
- 『肉声史』 戦争を語る (67) (編集者, 2007/10/22 7:10)
- 『肉声史』 戦争を語る (68) (編集者, 2007/10/23 8:10)
- 『肉声史』 戦争を語る (69) (編集者, 2007/10/24 8:49)
- 『肉声史』 戦争を語る (70) (編集者, 2007/10/25 8:01)
- 『肉声史』 戦争を語る (71) (編集者, 2007/10/26 8:05)
- 『肉声史』 戦争を語る (72) (編集者, 2007/10/27 8:11)
- 『肉声史』 戦争を語る (73) (編集者, 2007/10/28 17:22)
- 『肉声史』 戦争を語る (74) (編集者, 2007/10/29 8:09)
- 『肉声史』 戦争を語る (75) (編集者, 2007/11/1 10:07)
- 『肉声史』 戦争を語る (76) (編集者, 2007/11/3 7:54)
- 『肉声史』 戦争を語る (77) (編集者, 2007/11/4 8:02)
- 『肉声史』 戦争を語る (78) (編集者, 2007/11/5 7:29)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
「勝ち組はお風呂、負け組みはランニング」
葉山町 戸田 康治(大正14《1925》年生)
(あらすじ)
昭和18年、海軍第6期予備練習生の願書を親にも相談せず提出し、品川の海軍経理学校で受験。 10月頃合格通知が届き、翌年の1月11日に追浜《横須賀市》海軍航空隊に入隊するように記載されていた。 親に話すと「時節柄、やむを得ない」と追浜まで送ってくれた。私は48分隊10班の次長を命じられた。班には他に10人いて、全部で12班あった。 48分隊は134名の兵と12名の下士官、隊長1名だった。棒倒し訓練があり、負けた班は飛行場1周、勝った班は風呂へ。また寝るためのハンモックを使った競争もあった。カッター訓練はお尻の皮が剥《む》ける厳しい訓練だった。5月には辻堂海岸《神奈川県》演習実施。2泊3目の演習で、空砲を使用して実践さながらだった。辻堂から追浜までの20kmを走って帰り、遅れると営門が閉められた。その後隊長より1等下士官を命じられ、兵2名を連れて厚木302航空隊へ。7、8名の兵と2名の下士官で、飛行機の電機周りの整備が主な作業だった。そこでは皆各自の感覚だけで調整していてバラつきが出ていた。
そこで、国産電機の製作所に出張してサーチャーという金属板を持ち帰り、誰が調整しても同じ状態になった。
終戦となり、補機室を閉め、全員退出準備にかかった。私は東京・神田にある亡き父の電気工事店に帰った。大手町の旧安田銀行本店復旧工事も手伝い、毎目真っ黒になって仕事した。
2ヵ月後には営業室が使用できるようになった。後にその縁で銀行に就職した。
「水上特攻隊 終戦 命助かる」
葉山町 斎藤 宏壽(大正14年生)
(あらすじ)
戦争末期、本土防衛本土決戦が叫ばれる時、私も召集令状を受け取った。学業を半ばにして肉親との別れは残念だった。船舶工兵として入隊し、厳しい軍隊生活が始まった。人権も自由もなく、空腹と喉《のど》の渇きには本当に苦しめられた。第一線部隊に配属され、本土防衛の任に当たった。任務は水上特攻で、舟艇に爆薬を積んで敵の艦船に体当たりすることだった。
昭和20[年7月27目、隊長より呼び出され、8月17目に出撃との命令を受ける。死は覚悟していたが、その夜はさすがに眠れなかった。毎朝、起床の度に死が一日一日と近づく。
8月2日面会が許された。夜の明けるのが待ち遠しかった。午後4時、隊長より面会に際しての諸注意を受ける。「最後の面会となるが、死は絶対に口にしてはならない。自分が大切にしている物を渡せば、親は理解する」とのことだった。母の元へと駆け足で行く。本当に嬉しかった。母はただただ笑顔で迎えてくれた。隊長の言われた通り、形見の品を渡したが母は笑顔を絶やさない。後に母は、すぐに分かったが涙を流すわけにもいかず、笑顔で別れたと言っていた。
8月15目、終戦になり命が肋かった。本当に嬉しかった。 30日に復員し、営門《=陣営、兵営の門》を出た時の解放感は忘れられない。栄養失調の下痢にその後も半年間苦しめられた。昭和22年に兄の戦死が確認された。兄の戦死したニューギニアでは、遺体がまだそのままになっていた。軍隊生活は死ぬ以上の苦しみだったが、味わった人でないと分からない。自分の子や孫にはあの苦しみを味わわせたくない。
葉山町 戸田 康治(大正14《1925》年生)
(あらすじ)
昭和18年、海軍第6期予備練習生の願書を親にも相談せず提出し、品川の海軍経理学校で受験。 10月頃合格通知が届き、翌年の1月11日に追浜《横須賀市》海軍航空隊に入隊するように記載されていた。 親に話すと「時節柄、やむを得ない」と追浜まで送ってくれた。私は48分隊10班の次長を命じられた。班には他に10人いて、全部で12班あった。 48分隊は134名の兵と12名の下士官、隊長1名だった。棒倒し訓練があり、負けた班は飛行場1周、勝った班は風呂へ。また寝るためのハンモックを使った競争もあった。カッター訓練はお尻の皮が剥《む》ける厳しい訓練だった。5月には辻堂海岸《神奈川県》演習実施。2泊3目の演習で、空砲を使用して実践さながらだった。辻堂から追浜までの20kmを走って帰り、遅れると営門が閉められた。その後隊長より1等下士官を命じられ、兵2名を連れて厚木302航空隊へ。7、8名の兵と2名の下士官で、飛行機の電機周りの整備が主な作業だった。そこでは皆各自の感覚だけで調整していてバラつきが出ていた。
そこで、国産電機の製作所に出張してサーチャーという金属板を持ち帰り、誰が調整しても同じ状態になった。
終戦となり、補機室を閉め、全員退出準備にかかった。私は東京・神田にある亡き父の電気工事店に帰った。大手町の旧安田銀行本店復旧工事も手伝い、毎目真っ黒になって仕事した。
2ヵ月後には営業室が使用できるようになった。後にその縁で銀行に就職した。
「水上特攻隊 終戦 命助かる」
葉山町 斎藤 宏壽(大正14年生)
(あらすじ)
戦争末期、本土防衛本土決戦が叫ばれる時、私も召集令状を受け取った。学業を半ばにして肉親との別れは残念だった。船舶工兵として入隊し、厳しい軍隊生活が始まった。人権も自由もなく、空腹と喉《のど》の渇きには本当に苦しめられた。第一線部隊に配属され、本土防衛の任に当たった。任務は水上特攻で、舟艇に爆薬を積んで敵の艦船に体当たりすることだった。
昭和20[年7月27目、隊長より呼び出され、8月17目に出撃との命令を受ける。死は覚悟していたが、その夜はさすがに眠れなかった。毎朝、起床の度に死が一日一日と近づく。
8月2日面会が許された。夜の明けるのが待ち遠しかった。午後4時、隊長より面会に際しての諸注意を受ける。「最後の面会となるが、死は絶対に口にしてはならない。自分が大切にしている物を渡せば、親は理解する」とのことだった。母の元へと駆け足で行く。本当に嬉しかった。母はただただ笑顔で迎えてくれた。隊長の言われた通り、形見の品を渡したが母は笑顔を絶やさない。後に母は、すぐに分かったが涙を流すわけにもいかず、笑顔で別れたと言っていた。
8月15目、終戦になり命が肋かった。本当に嬉しかった。 30日に復員し、営門《=陣営、兵営の門》を出た時の解放感は忘れられない。栄養失調の下痢にその後も半年間苦しめられた。昭和22年に兄の戦死が確認された。兄の戦死したニューギニアでは、遺体がまだそのままになっていた。軍隊生活は死ぬ以上の苦しみだったが、味わった人でないと分からない。自分の子や孫にはあの苦しみを味わわせたくない。
--
編集者 (代理投稿)