『肉声史』 戦争を語る (11)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
「富士山を見て祖国帰国を実感」
逗子市 磯崎セツ子(大正11《1922》年生)
(あらすじ)
昭和19年8月、会社勤めで製図手だった私は、連日の学徒出陣に矢もたてもたまらず、丁度募集のあった軍属の試験を受けた。採用が決まり、軍用船で釜山《プサン》港に上陸。1週間後、遼陽《りょうよう=中国遼寧省の都市》に到着した。 陸軍行政本部南満陸軍造兵廠に入隊。工務課に製図手として配属された。この部隊は科学部隊で爆薬、砲弾などを作って前線に送る任務だった。米軍のB29《=爆撃機》が頭上を通る時、高射砲《=飛行機を射撃するのにもちいる》部隊が配置されていてもこちらから撃つことはできない。部隊そのものが火薬庫なので自爆する恐れがあったからである。前線基地やレイテ島玉砕《ぎょくさい=名誉や忠義を重んじて潔く死ぬこと》で作業がストップし、防空壕掘りなどをして苛立《いらだ》つ日々を送った。そのうち吉林派遣の命令があったが、国境付近の不穏な空気で出発を見合わせた。間もなくソ連軍が攻めてきた。吉林の先発隊は全滅。終戦で武装解除。私達女子寮の者はそれぞれ文官武官の家に預けられ、短髪に男物の服を着て外出禁止。しかし、進駐《=軍隊が他国の領土に進軍してとどまっている》して来た責任将校に分別があり、事なきを得た。
6月27日 東北保安司令長官部より退去命令が出て、一般市民と共に遼陽《りょうよう》日本人居留民として引き揚げた。帰国の途中で同僚が亡くなり、故国を目の前にして残念と泣いた。博多港に着き「りんごの唄」を聞いてそこで日本は変わった事を感じ、富士山を見て帰国を実感した。終戦から60年、戦争を知らない人が増えている今、話さればと思った。国の為に皆一生懸命だった。この体験談は昭和という激動の時代を必死に生きた証《あかし》だ。
(お話を聞いて)
磯崎さんのお話をお聞きして、私も戦争中、杉並区荻窪の中島飛行機製作所の近くに住でいましたので、たびたび爆弾投下の恐ろしさを知っていますが、この度のお話は私の体験したものとは比較にならないほどの御苦労をなさって来たお話でした。
お国のために女の子が技能職の軍属として志願されたのは、あの時代のことではありますが積極的な方だと思いました。それにしてもよくお父様がお許しになったなと感じます。男の子が居ないからお前いってお国のお投に立ってこいとお考えになられたのだと思います。その後敗戦という思いもかけない事態になり、現地の混乱の中をよくぞご無事にお帰りになれたものだと思います。
ソ連軍、八路軍、国府軍と入れ替わり立ち代りの支配者の変化、お話を聞いていても残酷な行為に息が詰まる思いがしました。
そのような中をやっとの思いつ帰国の途に着かれたのですが、その途中でもさまざまな御苦労があったわけです。
やっと日本に向かう帰国船に乗ることが出来ました。しかしゆっくり足を延ばして横になるスペースもない波の荒い玄界灘で、永い間一緒に苦労してきた友人が亡くなってしまいました。その悲しみはお話の時には涙を流してお話になり私も、もらい泣きをしてしまいました。
博多に到着してもすぐに上陸出来たわけではなかった。でも上陸して宿舎で聞いたリンゴの歌は、ああやっと日本に帰って来られたのだと、安堵《あんど》を感じたようです。
帰郷の途中大垣駅で駅員さんたちから接待され車窓から見た富士山の姿に涙を流されました。秋葉原からの総武線で労働者風の方から声をかけられコッペパンを頂いた心の暖まるお話もありました。
お孫さんが小学生のとき、学校で戦争は悪いことだと教えられ、戦争中のおばちゃんが外地で戦争に協力した話は、もう一生涯するわけにはいかないもの、と思っていましたが、今こうして話を聞いて頂きよかったと申しておりました。昭和の激動の時代に若い女性であろうともお国のためにと命を賭けて海外に雄飛《ゆうひ=勢い盛んに勇ましく活動する》した話は残しておきたいものです。
(聞き手 林 恵子 大正13年生)
逗子市 磯崎セツ子(大正11《1922》年生)
(あらすじ)
昭和19年8月、会社勤めで製図手だった私は、連日の学徒出陣に矢もたてもたまらず、丁度募集のあった軍属の試験を受けた。採用が決まり、軍用船で釜山《プサン》港に上陸。1週間後、遼陽《りょうよう=中国遼寧省の都市》に到着した。 陸軍行政本部南満陸軍造兵廠に入隊。工務課に製図手として配属された。この部隊は科学部隊で爆薬、砲弾などを作って前線に送る任務だった。米軍のB29《=爆撃機》が頭上を通る時、高射砲《=飛行機を射撃するのにもちいる》部隊が配置されていてもこちらから撃つことはできない。部隊そのものが火薬庫なので自爆する恐れがあったからである。前線基地やレイテ島玉砕《ぎょくさい=名誉や忠義を重んじて潔く死ぬこと》で作業がストップし、防空壕掘りなどをして苛立《いらだ》つ日々を送った。そのうち吉林派遣の命令があったが、国境付近の不穏な空気で出発を見合わせた。間もなくソ連軍が攻めてきた。吉林の先発隊は全滅。終戦で武装解除。私達女子寮の者はそれぞれ文官武官の家に預けられ、短髪に男物の服を着て外出禁止。しかし、進駐《=軍隊が他国の領土に進軍してとどまっている》して来た責任将校に分別があり、事なきを得た。
6月27日 東北保安司令長官部より退去命令が出て、一般市民と共に遼陽《りょうよう》日本人居留民として引き揚げた。帰国の途中で同僚が亡くなり、故国を目の前にして残念と泣いた。博多港に着き「りんごの唄」を聞いてそこで日本は変わった事を感じ、富士山を見て帰国を実感した。終戦から60年、戦争を知らない人が増えている今、話さればと思った。国の為に皆一生懸命だった。この体験談は昭和という激動の時代を必死に生きた証《あかし》だ。
(お話を聞いて)
磯崎さんのお話をお聞きして、私も戦争中、杉並区荻窪の中島飛行機製作所の近くに住でいましたので、たびたび爆弾投下の恐ろしさを知っていますが、この度のお話は私の体験したものとは比較にならないほどの御苦労をなさって来たお話でした。
お国のために女の子が技能職の軍属として志願されたのは、あの時代のことではありますが積極的な方だと思いました。それにしてもよくお父様がお許しになったなと感じます。男の子が居ないからお前いってお国のお投に立ってこいとお考えになられたのだと思います。その後敗戦という思いもかけない事態になり、現地の混乱の中をよくぞご無事にお帰りになれたものだと思います。
ソ連軍、八路軍、国府軍と入れ替わり立ち代りの支配者の変化、お話を聞いていても残酷な行為に息が詰まる思いがしました。
そのような中をやっとの思いつ帰国の途に着かれたのですが、その途中でもさまざまな御苦労があったわけです。
やっと日本に向かう帰国船に乗ることが出来ました。しかしゆっくり足を延ばして横になるスペースもない波の荒い玄界灘で、永い間一緒に苦労してきた友人が亡くなってしまいました。その悲しみはお話の時には涙を流してお話になり私も、もらい泣きをしてしまいました。
博多に到着してもすぐに上陸出来たわけではなかった。でも上陸して宿舎で聞いたリンゴの歌は、ああやっと日本に帰って来られたのだと、安堵《あんど》を感じたようです。
帰郷の途中大垣駅で駅員さんたちから接待され車窓から見た富士山の姿に涙を流されました。秋葉原からの総武線で労働者風の方から声をかけられコッペパンを頂いた心の暖まるお話もありました。
お孫さんが小学生のとき、学校で戦争は悪いことだと教えられ、戦争中のおばちゃんが外地で戦争に協力した話は、もう一生涯するわけにはいかないもの、と思っていましたが、今こうして話を聞いて頂きよかったと申しておりました。昭和の激動の時代に若い女性であろうともお国のためにと命を賭けて海外に雄飛《ゆうひ=勢い盛んに勇ましく活動する》した話は残しておきたいものです。
(聞き手 林 恵子 大正13年生)
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編集者 (代理投稿)