『肉声史』 戦争を語る (23)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
「うれしかった出征見送りと差し入れ品」
藤沢市 小菅 信雄(大正3《1914》年生)
(あらすじ)
23歳で補充兵として出征。昭和12年10月12日、赤紙がきて1週間後のことだった。
東京近衛3連隊へ。まず「上官の命令は如何を問わず直ちに服従しろ」と言われた。礼儀作法ばかりで軍隊の事はやらず、19日に出動命令。「明日午前2時品川駅集合」で各自家に連絡し家族や職場の人が駅に見送りに来てくれた。品川を7時に出発、8時頃列車が藤沢駅を通過する時、村中の人が屋根に乗って「万歳」と見送ってくれた。途中、小田原駅と静岡駅での国防婦人会《=陸軍支援の本女性の戦争協力機関》の茶と菓子の接待が嬉しかった。夜には広島へ到着。練兵所で銃を渡されて1週間演習。宇品《=広島市南部の港》から行き先分らず「おはいお丸」へ乗り、朝鮮の木浦へ。
そこで11月3日「くらま丸」に乗り換えたが、北支からの兵が一杯で寝る所もなかった。
その時上海陥落の放送があった。5日の午前5時、広州湾へ上陸開始命令。私達300人にスコップが渡されて上陸。上海領事館には「100万上陸成功」とアドバルーンが揚がったが本当は10万人の上陸だった。クリーク《=中国の小運河》を埋めながら自分達で道を作って行く。
日本人か分らない死体が累々。軍からの食料支給もなく、現他のさつま芋を掘って食べた。1カ月後上海へ。停泊場司令部の計画課で暗号を受け渡しする係だった。昭和14年9月に帰国。 再び昭和20年7月1日に召集、東京目黒の近衛師団へ。 45名の主計《しゅけい=会計をつかさどる》下士官要員だった。そこで終戦。これからどうなるのかと不安だった。何とか人並みになろうと一生懸命生きてきた。
(お話を聞いて)
信雄さんに戦争を語っていただいて私がとても心に懸かったこと、それは国家がどのように国民を兵士に仕立て、信雄さんがそれをどのように受け止めていたかという心の軌跡《きせき》であった。
農家の次男として穏やかなラリーマン生活を送っていた23歳の信雄さんに召集令状が届いたのは昭和12年の秋のこと。「いよいよ来たか」とそんな心境で赤紙を開いたという。入隊までの一週間は出征祝いが続き、出発の朝は村中総出の見送り、高揚した心は様々の憂いを断ち切らせてしまった。そして入隊してからの一週間に訓練されたことは「情感(上官?)に対する絶対服従」の徹底した教えだけであった。上官の命今によってのみ働くロボットに改造されたのである。上官の命令、すなわち国家の命令に一極集中させ、個人の意思や思考は遮断され、死への恐怖さえ削《そ》いでしまったのである。国家が国民にかけたマインドコントロールではなかっただろうか。戦場で目にした参状を語るとき、信雄さんは声を詰まらせ、タオルを顔に押しあてた。辛い過去を容赦なく快っているようで私も辛かったが、信雄さんの痛みをしっかり受け取らなければとテープを回し続けた。
戦士としての信雄さんは銃をペンに持ち換えることが出来て、計画係りという事務職の任に就いた。この選択は信雄さんの強い意志が働いた結果であり、戦争という極限状態の中で強靭《きょうじん=強く粘りある》な精神を持ち続けた証《あかし》でもあった。しかし戦地での2年半を終え、帰国を果たした時の記憶がすっかり抜け落ちているという。極度の緊張状態から解き放たれた時、人間はきっと心の糸が切れてしまうのだろう。その傷も癒えぬ昭和20年夏、信雄さんには2度目の赤紙が届いたのである。
憲法9条(戦争放棄)改正も取り沙汰される今、平和の希求に託す私の一票は信雄さんによっていっそうその重みを加えた。
聞き手 清水茂代 昭和20《1945》年生まれ
藤沢市 小菅 信雄(大正3《1914》年生)
(あらすじ)
23歳で補充兵として出征。昭和12年10月12日、赤紙がきて1週間後のことだった。
東京近衛3連隊へ。まず「上官の命令は如何を問わず直ちに服従しろ」と言われた。礼儀作法ばかりで軍隊の事はやらず、19日に出動命令。「明日午前2時品川駅集合」で各自家に連絡し家族や職場の人が駅に見送りに来てくれた。品川を7時に出発、8時頃列車が藤沢駅を通過する時、村中の人が屋根に乗って「万歳」と見送ってくれた。途中、小田原駅と静岡駅での国防婦人会《=陸軍支援の本女性の戦争協力機関》の茶と菓子の接待が嬉しかった。夜には広島へ到着。練兵所で銃を渡されて1週間演習。宇品《=広島市南部の港》から行き先分らず「おはいお丸」へ乗り、朝鮮の木浦へ。
そこで11月3日「くらま丸」に乗り換えたが、北支からの兵が一杯で寝る所もなかった。
その時上海陥落の放送があった。5日の午前5時、広州湾へ上陸開始命令。私達300人にスコップが渡されて上陸。上海領事館には「100万上陸成功」とアドバルーンが揚がったが本当は10万人の上陸だった。クリーク《=中国の小運河》を埋めながら自分達で道を作って行く。
日本人か分らない死体が累々。軍からの食料支給もなく、現他のさつま芋を掘って食べた。1カ月後上海へ。停泊場司令部の計画課で暗号を受け渡しする係だった。昭和14年9月に帰国。 再び昭和20年7月1日に召集、東京目黒の近衛師団へ。 45名の主計《しゅけい=会計をつかさどる》下士官要員だった。そこで終戦。これからどうなるのかと不安だった。何とか人並みになろうと一生懸命生きてきた。
(お話を聞いて)
信雄さんに戦争を語っていただいて私がとても心に懸かったこと、それは国家がどのように国民を兵士に仕立て、信雄さんがそれをどのように受け止めていたかという心の軌跡《きせき》であった。
農家の次男として穏やかなラリーマン生活を送っていた23歳の信雄さんに召集令状が届いたのは昭和12年の秋のこと。「いよいよ来たか」とそんな心境で赤紙を開いたという。入隊までの一週間は出征祝いが続き、出発の朝は村中総出の見送り、高揚した心は様々の憂いを断ち切らせてしまった。そして入隊してからの一週間に訓練されたことは「情感(上官?)に対する絶対服従」の徹底した教えだけであった。上官の命今によってのみ働くロボットに改造されたのである。上官の命令、すなわち国家の命令に一極集中させ、個人の意思や思考は遮断され、死への恐怖さえ削《そ》いでしまったのである。国家が国民にかけたマインドコントロールではなかっただろうか。戦場で目にした参状を語るとき、信雄さんは声を詰まらせ、タオルを顔に押しあてた。辛い過去を容赦なく快っているようで私も辛かったが、信雄さんの痛みをしっかり受け取らなければとテープを回し続けた。
戦士としての信雄さんは銃をペンに持ち換えることが出来て、計画係りという事務職の任に就いた。この選択は信雄さんの強い意志が働いた結果であり、戦争という極限状態の中で強靭《きょうじん=強く粘りある》な精神を持ち続けた証《あかし》でもあった。しかし戦地での2年半を終え、帰国を果たした時の記憶がすっかり抜け落ちているという。極度の緊張状態から解き放たれた時、人間はきっと心の糸が切れてしまうのだろう。その傷も癒えぬ昭和20年夏、信雄さんには2度目の赤紙が届いたのである。
憲法9条(戦争放棄)改正も取り沙汰される今、平和の希求に託す私の一票は信雄さんによっていっそうその重みを加えた。
聞き手 清水茂代 昭和20《1945》年生まれ
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