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『肉声史』 戦争を語る (21)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (21)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/8/24 7:39
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 「ノルマで変わる食生活」

 藤沢市 小林 正雄(大正15《1926》年生)

 (あらすじ)

 昭和20年、私は南満錦県の飛行隊にいた。戦局は厳しさを増し、対ソ連特別攻撃隊員として日々特攻戦技に励んでいた8月に終戦となり、武装解除。愛機を捨て去るのは忍びがたいことだった。同年秋、帰国できると信じて乗った列車は、荒涼とした平野を北へ向かいシベリアヘと走っていた。バイカル湖畔をさらに奥地へ行き、ヤーヤ収容所に着いた時は日が暮れていた。
 零下30度、極寒のシベリアで重労働が始まった。私は伐採した木材を貨車に積み込む作業。ロシアの労働者には女、子供もいて馬ソリで木材を運んでいた。私達の作業はノルマ制の能率給食で、80%以下は黒パン250 g 、100%で300 g 、と薄味のスーブ1椀《わん》。半年もすると体力も衰え、栄養失調で倒れる友も毎日のようにいた。私は腐敗した馬鈴薯を拾い、ペーチカで煮て食べ飢えをしのいでいた。2度目の冬がきた頃には亡くなる友は日に日に増え、苦衷《くちゅう》この上なく言葉に表すことはできなかった。
 ロシアの思想教育があり、何ケ月か過ぎたある日、一日の作業が終わり、ラーゲル(収容所)に戻った時、収容所長、政治将校、通訳を交え、待ちに待った帰還発言があった。そして夢にまで見た懐かしい故郷日本へ帰ることができたのは、昭和23年5月のことだった。


 「爆弾、穴埋め、また爆弾」

 藤沢市 大野ひろし(大正8《1919》年生)

 (あらすじ)

 昭和16年、私は22歳で3月に卒業して就職したばかりだった。ラジオで開戦を知った。
 体が震えて「ああ始まったか」。1月10日入隊。甲府の連隊から麻布の3連隊へ。国民は何も知らされてなかった。その後ハルピンの司令部へ行き、初年兵の訓練が始まった。寒さに強い兵隊を作ろうと、ソ連と戦う準備だった。雪の中で病気や凍傷との闘い。そのうち貨車で九州へ。大分の港で大きな輸送船の中、どこへ行くのかも知らされず船底で隠れて持っていた。
 船団組んで昭和19年に沖縄へ行った。半月程してさらに宮古島へ。島の人達は私達を日の丸の旗を振って歓迎してくれた。島を守るんだという気持ちで降り立った。島内を歩いて偵察し飛行場をエンピとハンマーで整備した。夜になるとグラマンが爆弾を落としていく。爆弾であいた穴を埋めているところへまた爆弾を落とされシーソーゲームのようだった。毎朝6時に起床、陣地構築が日課だった。
 困ったのは食糧が内地から来ないこと。せっかく来ても島に降ろす前に攻撃で沈められてしまう。島の人が食糧を分けてくれた。島には4年いたが、私はマラリアに罹った。肝臓が腫《は》れ、黄疸《おうだん》が出ても任務遂行。島民がヤギの乳をくれたり、魚を差し入れてくれた。ありがたかった。20年12月沖縄の捕虜収容所へ。沖縄は山が平らになっていて戦いの壮絶さを物語っていた。 21年3月に浦賀へ戻った。両親の死に目も会えず、戦争にはズタズタにされた。戦争は一人ひとりが自由にならず、皆同じ方向を向かされる。恐ろしい。

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編集者 (代理投稿)

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