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『肉声史』 戦争を語る (57)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (57)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/10/9 7:55
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
「戦時の事務仕事 悲喜こもごも」

  松田町 北村 重輝(大正10《1921》年生)

 (あらすじ)

 私は戦争には行かず、銃後《=戦場の後方で》の守りで昭和19年6月から松田国民勤労動員所に奉職していた。生産工場の人員を確保する仕事で、大部分の男性が戦争に行ったので、人手を揃えるのに大変な苦労があった。
 鉄砲の弾、軍用の飛行機等を作る生産従業員は欠かせないもので、それを徴用《=国民を強制的に動員して、一定の仕事に就かせる》として動員をかけた。徴兵の赤紙に対して、黒紙で呼び出した。女子挺身隊《=太平洋戦争時の女子勤労動員組織》、奉国隊も同様。仕事の好き嫌い等個人的なことは考慮せず、専ら軍用の生産に従事させる従業員を確保した。南足柄郡にフイルムの会社があった。そこへ若干20歳過ぎの私が、知事の代理で訓示を読むことになり一人で出張した。 初めての体験で足が震えたが、俺の背中には日の丸がついていると思ったら震えも止まった。私が勤務していた動員署の職員は男5人女11人だった。常に緊張した状況で仕事していた。当時、勤労奉仕は多く行われた。中学生、尋常小学校の高等科の生徒等は農家へ。物々交換も盛んに行われた。
 都会の人が着物等を農家で食べ物と交換した。徴用で一人の男性を送ったが、東京から先はどこへ送られたかはこちらもわからない。敗戦後、背中に赤ん坊、手には3、4歳の女の子を連れた女性が「うちの父ちゃんどこへ行ったんでしょう」とその男性を訪ねて来た。
 私も答えようがなく、女性と一緒に涙した思い出がある。また、松田にマッカーサー《=戦後、日本占領連合軍最高司令官》が上陸して来ると聞き、どうなるかと思ったが、役所に来て私が通訳した。緊張の連続の数ヶ月だった。


 (お話を聞いて)

 私の今までの「戦争」というもののイメージは零戦や戦艦大和、空襲や原爆といったものであり、少し遠い世界の事のように思っていました。しかし今回戦争体験者のお話を聴き、戦争は非常に身近な出来事であったと知りました。
 私は戦争体験者の話を聞き、特に二つのことか強く印象に残りました。一つ目は、今日初めて知った言葉である「銃後の守り」です。最初私は女子挺身隊となった人々や出征しなかった男の人たちなどは強制的に働かされ、嫌々ながらも国の為に作業していたのだと思っていました。しかし話を聞き、また当時の状況を考えると、兵隊となって戦っていたのは自分の夫や父や兄弟だった訳です。肉親を少しでも助け、守るために工場では働くことが出来たのではないかと思え、またそう考えると戦っていた兵隊達も非常に心強かったのではないかと思いました。
 二つ目は戦争を体験していない世代へのメッセージとして読まれた詩です。戦争を体験した世代がどのような気持ちで日本を作ってきたのかという事がよくわかりました。特に、「日本を立て直す」という精神が日本の高度成長を支えたのだと深く感じました。この詩は他にも今の日本人に対する大切な何かを教えてくれている気がします。
 今回のこの体験で、戦時中の日本はどのように必死だったのか、また、どのような悲しみがあったのか知ることが出来ました。
 今も世界中に戦争中の地域や戦争の爪跡に苦しめられている人々がいます。
 今までは他人事のように感じていた戦争などの映像も、実は身近に同じような体験をした人がいる。
これを知ることができ、本当に良かったと思います。次は、この「肉声史戦争」を聞いた私たち世代が平和を築き、維持していこうと強く思いました。

 (聞き手 北村重浩 昭和63《1988》年生)


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編集者 (代理投稿)

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