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『肉声史』 戦争を語る(53)

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通常 『肉声史』 戦争を語る(53)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/10/5 7:57
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
「7歳の女の子の戦争」

 中井町 賀美マサ子(昭和13《1938》年生)

 昭和20《1945》年7月16日の夜、平塚が空襲に遭《あ》った。私は7歳だった。平塚には軍事工場が2ヶ所、大磯にも高射砲の基地があったので兵隊や兵舎がたくさんだった。私達は兵舎へ慰問によく行かされ、歌や踊りで兵隊さんが喜んでくれたのを覚えている。
 7月16日夜11時32分に爆弾の1発目が落とされた。その後、平塚の方面を見たら「熱い熱い」と人の悲鳴でびっくりした。川には人が大勢入っていた。私は靴がぶかぶかだったので裸足《=はだし》で逃げていた。 兵舎に来て逃げ惑った。どこへ逃げていいか分からなかったが、小さいからと防空壕に入れてもらえた。ところがその防空壕が爆弾の直撃を受けた。
 兄が私の手を取って引きずり上げたが、ショックで逃げることができず、ズルズルと這いずって畑の中を逃げ、大きな木の下に入った。ふと手を見ると、リュックに入っていたはずの父の位牌を持っていた。私は父の顔も知らないが「ああ、父が助けてくれた」と涙が出た。
 17日の明け方自宅を探しに行くと、すぐに見つかった。周りは焼け野原で、私の家だけ一軒ポッンと残っていた。叔母が逃げて来た。2歳の子供に自分の唾を飲ませながら逃げて来たが、子供は死んでいた。昭和20年8月15日の前日、私は大切な祖父を亡くした。具合の悪いのに逃げ回って疲れが出たのだと思う。もう戦争は沢山。ラジオの「警戒警報発令」を聞くと、もうああいう思いはしたくない。おじは特攻隊《注1》で21歳で亡くなった。3人も身内を亡くした。もう嫌だ。

 
 「悲しい戦争 だが 作る喜びを知る」
 
 中井町 相原栄吉(昭和6《1931》年生)

 (あらすじ)

 私は満州事変の始まった日に生まれたと親から聞いた。私達の世代は大変な時代に直面した。私は小学生だったので、戦争の原因は知らなかったが、悲しい戦争だったと思う。
 私が小学5年の時、戦争がだんだん激しくなり、東京、横浜、川崎と空襲の被害が大きくなった。私達の村にも横浜の生麦小学校から50人の集団疎開《注2》があり、迎えに行ったのを覚えている。疎開先での生活は大変だったと聞いた。昭和19年8月10日から約1年、時々親が来て供達を励ましていた。私達の学校でも教科書はなく、読み書きそろばんの授業だった。学習の中で農地を開墾《かいこん=山野を切り開いて農耕できる田畑にすること》した。草取り、肥料、管理が大変だった。11月の収穫が楽しみで、荒廃した地だったが、良いさつま芋が取れた。収穫した芋は学校へ運び、女子生徒が洗ってふかした。学校で初めての給食だった。全校生徒で楽しく食べた。腹八分だったが皆で喜んだ。この時学んだ共同精神の大切さ、作る喜び等は今でも人生の糧《かて=精神・生活の活力の源泉》になっている。
 家庭では、庭の隅に防空壕を作り、手伝った。姉が2人いたが、川崎と座間の軍需工場に徴用《注3》されていた。飼育していた農馬が徴用され、馬との別れもあった。大変な戦争で、初めは勝っていたがだんだん負け戦になっていった。内地が戦場になるのかと思うと悲しくなり、これからどうなるのかと思った。これからの世代には絶対戦争がないことを望む。

注1 特攻隊=第二次大戦で、旧日本陸海軍が体当たり戦法のために、特別に編制した部隊。爆装して敵艦に体当たりした航空特攻と、特殊潜航艇や人間魚雷などの海上特攻とがあった。

注2 集団疎開=集団で疎開すること。第二次大戦中の学童疎開を言うことが多い

注3 徴用=戦時などの非常時に、国家が国民を強制的に動員して、一定の仕事に就かせること

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編集者 (代理投稿)

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