『肉声史』 戦争を語る (37)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
(神奈川)県央ブロック
「戦闘機 雷電をつくっていた」
厚木市 花上 友彦(昭和5《1930》年生)
(あらすじ)
厚木中学2年の4月から翌年(昭和20年)8月まで、自宅から自転車、相鉄線と乗り継ぎ相模大塚に通うことになる。
当時女学校(現厚木東高校)の女生徒も日本光学に学徒としてレンズの研磨工として動員させられていた。自分ももう少し生まれるのが早ければ戦地に行っていただろう。
とにかく通うのが大変で、特に冬の寒さの中自転車で駅までいくつらさはなかった。無論、道も舗装されてはいない。工場には女工さんもいて、簡単な給食がでた。仕事はジュラルミンを万力で挟み、ヤスリでみがく作業であった。何を作っていたのかは、後で航空機「雷電」の部品の一部であったことがわかった。この飛行機はB29の迎撃用の飛行機で部品は別の場所に搬送され数十機の雷電が作られたらしい。P51(米国の戦闘機)が低空飛行で飛来したこともあった。昭和19年は特に寒くて、出勤する前に母が水桶の氷を割って朝の仕度をしていたことを思い出す。幸い食事は足りていた。
工場勤めで「オシャカになる」(全然使い物にならなくなってしまうこと)という言葉を知った。勉強は殆んどできず、「欲しがりません勝までは」とか「撃ちてし止まん」などの標語が使われていて、このような状況下で不満はなく、まして戦争が早く終わればいいなどという気持ちはまったくなかった。友達でも志願していった人もいた。小学校のときに紀元2600年(昭和15)のお祝いがあった記憶がある。
工場の中には防空壕があったが利用したことはない。当時軍需工場の疎開ということがあり、厚木の荻野が谷の戸《=谷の入り口》であったため上空から見つけにくいということで火薬廠《しょう》が疎開してきたことがあった。今でもその跡は残っている。付近の家では、将校の寝泊りのため宿舎として提供させられたそうだが、結局、軍需工場は疎開が完了する前に終戦になってしまった。終戦は夏休みの時で蝉がやかましく鳴いていた記憶があり、先行きの不安を感じたものである。
(お話を聞いて)
花上さんは、終戦の一年前、旧制中学から学業を離れ報国の動員学徒として座間町(現座間市)の海軍工廠への通勤を余儀なくされた。作業は、海軍戦闘機「雷電」の部品製作。
この部品が戦闘機のものであることを知ったのは後のことであった。朝日の昇らぬうちに厚木から自転車と電車を乗り継ぎ通う、きつい毎日だった。仕事はきつくても、そのことには何も抵抗なく、このことが,国にとって極めて当たり前のことだと信じており、
したがって終戦となったときには先行きの不安を感じたとおっしゃるのだった。人間の心理、特に大衆心理は時には大きな力となる。それがプラスに作用すれば幸いだが、戦争はまったく逆の作用である。花上さんは当時はまだ学生であったから、幸いにして敵と直接交戦したことはないが、後で振り返れば、学生でありながら、学べないという辛さがあったのだではなかろうか。お話を伺っている途中、奥様も時々お話に加わり、戦死された戦地のお兄様から家族に宛てた多くの貴重な手紙を見せていただいた。その最後のお手紙には、「返信無用」の覚悟の一通があった・・・。
花上さんは、戦後、教師として教壇に立ち現在は、自然観察会などでその指導にあたっておられる。戦後60年を経て、ご自分の体験を語るとき、静かに「戦争は絶対してはならぬ」とおっしゃった。
(聞き手 県老連事務局)
「戦闘機 雷電をつくっていた」
厚木市 花上 友彦(昭和5《1930》年生)
(あらすじ)
厚木中学2年の4月から翌年(昭和20年)8月まで、自宅から自転車、相鉄線と乗り継ぎ相模大塚に通うことになる。
当時女学校(現厚木東高校)の女生徒も日本光学に学徒としてレンズの研磨工として動員させられていた。自分ももう少し生まれるのが早ければ戦地に行っていただろう。
とにかく通うのが大変で、特に冬の寒さの中自転車で駅までいくつらさはなかった。無論、道も舗装されてはいない。工場には女工さんもいて、簡単な給食がでた。仕事はジュラルミンを万力で挟み、ヤスリでみがく作業であった。何を作っていたのかは、後で航空機「雷電」の部品の一部であったことがわかった。この飛行機はB29の迎撃用の飛行機で部品は別の場所に搬送され数十機の雷電が作られたらしい。P51(米国の戦闘機)が低空飛行で飛来したこともあった。昭和19年は特に寒くて、出勤する前に母が水桶の氷を割って朝の仕度をしていたことを思い出す。幸い食事は足りていた。
工場勤めで「オシャカになる」(全然使い物にならなくなってしまうこと)という言葉を知った。勉強は殆んどできず、「欲しがりません勝までは」とか「撃ちてし止まん」などの標語が使われていて、このような状況下で不満はなく、まして戦争が早く終わればいいなどという気持ちはまったくなかった。友達でも志願していった人もいた。小学校のときに紀元2600年(昭和15)のお祝いがあった記憶がある。
工場の中には防空壕があったが利用したことはない。当時軍需工場の疎開ということがあり、厚木の荻野が谷の戸《=谷の入り口》であったため上空から見つけにくいということで火薬廠《しょう》が疎開してきたことがあった。今でもその跡は残っている。付近の家では、将校の寝泊りのため宿舎として提供させられたそうだが、結局、軍需工場は疎開が完了する前に終戦になってしまった。終戦は夏休みの時で蝉がやかましく鳴いていた記憶があり、先行きの不安を感じたものである。
(お話を聞いて)
花上さんは、終戦の一年前、旧制中学から学業を離れ報国の動員学徒として座間町(現座間市)の海軍工廠への通勤を余儀なくされた。作業は、海軍戦闘機「雷電」の部品製作。
この部品が戦闘機のものであることを知ったのは後のことであった。朝日の昇らぬうちに厚木から自転車と電車を乗り継ぎ通う、きつい毎日だった。仕事はきつくても、そのことには何も抵抗なく、このことが,国にとって極めて当たり前のことだと信じており、
したがって終戦となったときには先行きの不安を感じたとおっしゃるのだった。人間の心理、特に大衆心理は時には大きな力となる。それがプラスに作用すれば幸いだが、戦争はまったく逆の作用である。花上さんは当時はまだ学生であったから、幸いにして敵と直接交戦したことはないが、後で振り返れば、学生でありながら、学べないという辛さがあったのだではなかろうか。お話を伺っている途中、奥様も時々お話に加わり、戦死された戦地のお兄様から家族に宛てた多くの貴重な手紙を見せていただいた。その最後のお手紙には、「返信無用」の覚悟の一通があった・・・。
花上さんは、戦後、教師として教壇に立ち現在は、自然観察会などでその指導にあたっておられる。戦後60年を経て、ご自分の体験を語るとき、静かに「戦争は絶対してはならぬ」とおっしゃった。
(聞き手 県老連事務局)
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