『肉声史』 戦争を語る (27)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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「美しくも恐ろしい艦砲射撃《かんぽーしゃげき》」
伊勢原市 永井 満慈子(大正8《1919》年生)
(あらすじ)
太平洋戦争開戦時、私は22歳で水戸の小学校教員だった。昭和18年に結婚して退職。戦争が激しく、結婚といっても嫁入り道具もなくトランクの中に着物を入れて嫁いだ形だけの式だった。あるもので皆がまんした。
灯火管制《とうかかんせい=夜間敵機の来襲に備え遮光・消灯する》と空襲、敵機の音は生きた心地しなかった。これが一番怖かった。当時1歳になる前の子供を連れていたので、体を休めることもできなかった。初めての子供は風邪で亡くした。内地には薬がなく、ろくな手当てもできず死なせてしまった。教師時代の苦い思い出は、本当は随分やられているのに学校では戦果の話をしたこと。太平洋から水戸方面に向かって大砲が撃たれる艦砲射撃は怖かった。皆「かんぽちゃん」と言っていた。紫、赤、ピンクと花火のように色が変わり、すごい爆撃音だった。水戸の空爆で家が焼けて、何もなくなった。弟が引っ張る大八車に家財道具を積んで、子供をおぶって水戸のはずれに疎開した。恐ろしい思いでした。楽しみは何もなかった。
教師時代には、北満方面に行った「満蒙開拓義勇隊」《ぎゆうたい=有志人民ががみずから編成した隊》を慰問、見学して報告する役に茨城県で一人選ばれ、1ケ月間行ってきた。向こうの人達は大変な苦労だった。こちらでも食糧がなく、ふすま《小麦を粉にしたときに残る皮のくず》、芋のつる、雑草など食べた。「欲しがりません勝つまでは」だった。内地では竹やり部隊の訓練もしていた。井戸からの水汲みは重労働だった。空襲サイレンの音は命を断ち切られる音だった。今は無駄が多い。食べ物も粗末にしすぎる。
(お話を聞いて)
取材は永井さんのご自宅にお邪魔して実施させていただきました。永井さんは御年86歳(平成17年)になられたが、足腰が痛くて正座することが出来ないといわれ、藤の椅子に腰掛けての対談となりましたが、「今日は少し体調が悪い」と仰ってはおられたが、どうしてどうして、いつものように綺麗《きれい》にお化粧もされ、尚いっそうふくよかで美しいお顔をされていました。
永井さんには「戦争を語る」の中、ご婦人の立場での内地(当時は銃後といっていた)での体験を聞かせて貰いたいとお願いし、予め御相談を致しましたが、「古いことで忘れたことが多く、余り難しいことは話せませんよ」といわれながらも、結構はっきりと答えて下さいました。
永井さんは茨城県の水戸市に近いところで生まれられ、太平洋戦争開戦時には二十二歳で、すでに数年小学校の先生として、児童の教育に携わっておられたが、当時の国策を忠実に履行され少しでも立派な中国民を育てようと、子供達からは「おっかない先生」と恐れられた反面、優しい愛情をもって接しられ、今でも毎年お米を送ってきてくれる子供がいたり、クラス会への招待や東京見物もさせてくれたりで、我が子以上にいろいろ心配してくれると聞くと、「よい先生」であったに違いないと思った。
永井さんの旦那さんは、有名な三之宮比々田神社の神官を務められていたが、召集され陸軍の軍人(階級は軍曹)を帰還後、永井さんと結婚された。戦争は次第に激しくなり、米国の艦隊による艦砲射撃の轟音には恐れおののき、艦載機による射撃攻撃で、大勢の市民が殺された。
そうした恐しい思いの毎日の生活で、やはり食べ物が無くてひもじい思いをしたことが辛かったが、唯一の楽しみは、隣近所同士で「お芋がふけたよ」との呼び掛けやお喋りすることだったという。
戦争が終わったときは、さすがにほっとして、明るい蛍光の光のなんと眩《まぶ》しかったことか。
戦争を知らない人々へ強く訴えたいことは何でも豊富にある現在、贅沢三昧《ぜいたくざんまい》の生活を反省し「もったいない」(質素)という気持ちが大切であるといわれた。
(聞き手 川口博 昭和2《1927》年生)
伊勢原市 永井 満慈子(大正8《1919》年生)
(あらすじ)
太平洋戦争開戦時、私は22歳で水戸の小学校教員だった。昭和18年に結婚して退職。戦争が激しく、結婚といっても嫁入り道具もなくトランクの中に着物を入れて嫁いだ形だけの式だった。あるもので皆がまんした。
灯火管制《とうかかんせい=夜間敵機の来襲に備え遮光・消灯する》と空襲、敵機の音は生きた心地しなかった。これが一番怖かった。当時1歳になる前の子供を連れていたので、体を休めることもできなかった。初めての子供は風邪で亡くした。内地には薬がなく、ろくな手当てもできず死なせてしまった。教師時代の苦い思い出は、本当は随分やられているのに学校では戦果の話をしたこと。太平洋から水戸方面に向かって大砲が撃たれる艦砲射撃は怖かった。皆「かんぽちゃん」と言っていた。紫、赤、ピンクと花火のように色が変わり、すごい爆撃音だった。水戸の空爆で家が焼けて、何もなくなった。弟が引っ張る大八車に家財道具を積んで、子供をおぶって水戸のはずれに疎開した。恐ろしい思いでした。楽しみは何もなかった。
教師時代には、北満方面に行った「満蒙開拓義勇隊」《ぎゆうたい=有志人民ががみずから編成した隊》を慰問、見学して報告する役に茨城県で一人選ばれ、1ケ月間行ってきた。向こうの人達は大変な苦労だった。こちらでも食糧がなく、ふすま《小麦を粉にしたときに残る皮のくず》、芋のつる、雑草など食べた。「欲しがりません勝つまでは」だった。内地では竹やり部隊の訓練もしていた。井戸からの水汲みは重労働だった。空襲サイレンの音は命を断ち切られる音だった。今は無駄が多い。食べ物も粗末にしすぎる。
(お話を聞いて)
取材は永井さんのご自宅にお邪魔して実施させていただきました。永井さんは御年86歳(平成17年)になられたが、足腰が痛くて正座することが出来ないといわれ、藤の椅子に腰掛けての対談となりましたが、「今日は少し体調が悪い」と仰ってはおられたが、どうしてどうして、いつものように綺麗《きれい》にお化粧もされ、尚いっそうふくよかで美しいお顔をされていました。
永井さんには「戦争を語る」の中、ご婦人の立場での内地(当時は銃後といっていた)での体験を聞かせて貰いたいとお願いし、予め御相談を致しましたが、「古いことで忘れたことが多く、余り難しいことは話せませんよ」といわれながらも、結構はっきりと答えて下さいました。
永井さんは茨城県の水戸市に近いところで生まれられ、太平洋戦争開戦時には二十二歳で、すでに数年小学校の先生として、児童の教育に携わっておられたが、当時の国策を忠実に履行され少しでも立派な中国民を育てようと、子供達からは「おっかない先生」と恐れられた反面、優しい愛情をもって接しられ、今でも毎年お米を送ってきてくれる子供がいたり、クラス会への招待や東京見物もさせてくれたりで、我が子以上にいろいろ心配してくれると聞くと、「よい先生」であったに違いないと思った。
永井さんの旦那さんは、有名な三之宮比々田神社の神官を務められていたが、召集され陸軍の軍人(階級は軍曹)を帰還後、永井さんと結婚された。戦争は次第に激しくなり、米国の艦隊による艦砲射撃の轟音には恐れおののき、艦載機による射撃攻撃で、大勢の市民が殺された。
そうした恐しい思いの毎日の生活で、やはり食べ物が無くてひもじい思いをしたことが辛かったが、唯一の楽しみは、隣近所同士で「お芋がふけたよ」との呼び掛けやお喋りすることだったという。
戦争が終わったときは、さすがにほっとして、明るい蛍光の光のなんと眩《まぶ》しかったことか。
戦争を知らない人々へ強く訴えたいことは何でも豊富にある現在、贅沢三昧《ぜいたくざんまい》の生活を反省し「もったいない」(質素)という気持ちが大切であるといわれた。
(聞き手 川口博 昭和2《1927》年生)
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編集者 (代理投稿)