『肉声史』 戦争を語る (25)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
(お話を聞いて)
“ガツン"胸に、体中に感じたことのない衝撃《しょうげき》を受けました。
西川さんは疎開されていた時のつらい生活とその心の内を話しでくれました。同席された高橋さんは、この地[善行]がおかれていた状況とご主人が外地に行かれ残された家族のことを話してくれました。
「空襲警報」発令で防空壕へ、「警戒警報」発令では家の電灯を黒い布で覆って真っ暗に。
「現役」と「召集」の違い、予科練、機銃、赤紙・‥。映画や本でしか聞いたことのない言葉を直接耳にし、お話についていくのに必死でした。現実とは思えない出来事の数々‥・。“実際に体験されたことなのだ。本当におこった事実なのだ" そう何度も心は訴たえなければとても考えられない事ばかりでした。
灼熱の太陽の下(もと)逃げまどう 又めぐり来る 戦(いくさ)の記憶
西川さんはいいました。夏の暑い時期がくると毎年おもいだすのよ。
そしてもうひとり同席された91歳の斉藤さんはいいました。 「つらいことは、なかっったよ」・・・と。その言葉がずしりと重く心に突さ刺さり残っています。
私は、今日聞かせていただいた貴重なお話をしっかり受けとめ心に刻み、自分の友人や子供達に伝えていきたいと思いました。 そして平和への感謝の気持ちと大切なもの、守っていくべきものを見失ってはならないということを改めで感じました。
(聞き手 石塚由加里 昭和39《1964》年生)
「引揚船 乗り遅れで命拾う」
藤沢市 武田きよ子(昭和3《1928》年生)
(あらすじ)
昭和20年8月15日、樺太川上町から女子供だけの引き上げが始まった。慌しく食物と着替え少々をリュックに詰め、父と別れて母と2人、北海道の親戚を頼りに身を寄せることになった。その日の夜、大泊港に向けて、土砂降りの雨の中汽車で出発。汽車は木材運搬用で屋根もなく横板もなかった。雨の中13時間汽車に揺られ、朝8時頃着いた。大泊港は多くの倉庫が立ち並び、内地からの品物が荷揚げされる所だった。倉庫には空きがなく、人々で一杯だった。倉庫を仮住まいにして自炊する人もいた。
私達は役場の人からお握りや味噌汁等を貰った。私達6人は郵便局員だったので、そのうち船に乗れるだろうと思っていたが、私は風邪をひき38度の熱が出た。
そんな時に逓信局の船が出ると知らせがあり、郵便局関係の人も乗れたが、私はまだ熱があったので乗船しなかった。仲間も「私を残して行けない」と一緒に残り、3日程遅れて出港した。それで命が助かったのだと後に分った。逓信局関係の船は、魚雷でやられていた。樺太とは音信不通で2年位は生死が分らなかった。私の父も半分はあきらめていたらしい。
5年程前に詩吟《しぎん=漢詩を詠う》「氷雪の門」と出合った。樺太真岡で電話交換手9名の乙女が交換台を最後まで守り通して内地に連絡し、ソ連軍と戦いあの世に旅立った話だった。私も交換台や電報通信機を守り、局に泊まり込んでお国の為と頑張った。空襲警報は1日に何回となくあったが、本当の空襲には遭わずに終戦を迎えた。
(お話を聞いて)
樺太から引き上げ船で本土に帰国寸前の夜、幸か不幸か、発熱のため帰国を遅らせた体験は、生死の境で、先に乗船した方々は魚雷による沈没のお話で、心に残るお話で胸が熱くなりました。まさに「九死に一生を得た」辛く悲しい心の内を思い感動しました。
当時、樺太から本土北海道への海中は、魚雷が水面下にあったと同様だとのこと。真岡電話局にソ連軍が侵攻したが、最後まで内地の皆さんのためと交換台を守り抜き、あの世に旅立った9人の女性がおり、最後に「さようなら、さようなら‥・」と打電したそうです。私たちの知らない樺太でのソ連軍の侵略も詩吟「氷雪の門」を通して知りました。
武田きよ子さんの詩吟を聞き、感慨無量です。そして、この感動を次の世代へ伝えていこうではありませんか。平和への願いと共に。
(聞き手 川勝良子 昭和7《1932》年生)
「斬り込み作戦隊長戦死、始まるジャングル生活」
茅ヶ崎市 青木 功(大正12《1923》年生)
(あらすじ)
昭和19年3月に教育召集で東部第8部隊に入隊。3ケ月の教育の後臨時召集になり、引き続き同隊に入隊。7月に門司港を出てマニラへ。セブを経てミンダナオ島《フィリッピン群島南東部》ザンボアンガに上陸。私は経理の経験があったので、大隊本部の経理部で帳簿記録や各隊への食糧配布勤務につき、陣地構築などの労働は免れた。
20年3月10日にはアメリカ軍が上陸してきて、13日から3日間の夜間の斬り込み作戦で大隊長が戦死した。20日には半島の西海岸を目指して退却、ジャングル生活が続いた。この間には食糧調達の為、現地の民家を襲撃して籾《もみ》を盗んだり、畑で芋を盗んだりした。フィリピンの人には申し訳ないことをした。
困ったのは塩。夜間に海岸まで行って塩を汲んできた。水と火がないと生活できないので、ねぐらを探すのは水のあるところだった。マラリヤや栄養失調で山の中で死んでいる人をたくさん見た。隊についていけない人は死んでしまった。結果的には隊の3分の2が戦死や戦病死だった。
もう少し早く終戦がわかって、投降していればこんなに犠牲者は出なかったかも。10月20日にやっと米軍のザンボアンガ収容所に投降、25日にレイテ島タクロバン収容所に移送された。ここにほとんどの兵が収容された。11月28日浦賀港に帰国。帰ってきた同僚で、フィリピンの山中に慰霊碑を作った。1年おきに参拝していたが、昭和50年からはあまり行けてない。私は3月10日の米軍上陸の日は忘れられない。絶対に戦争はダメだ。
(お話を聞いて)
青木功さんは82歳、お元気です
しかし、戦後体を悪くし入院されたこともあるそうです。子育ての時期で、奥さんが大変ご苦労されたとのことです。やはり、戦地でのご苦労が原因のようです。山中でさ迷い食料調達が困難で、水牛なども食べた話もされました。アメリカ軍に拘留《こうりゅう=捕らえられる》されてからは、缶詰などが中心であっても、十分な食事が出来たこと、コーヒーまでも出されたことなど、当時の日米の物量の差について青木さんの口から感慨深く語られました。戦中・戦後に食糧難(ひもじい思い)を経験した聞き手の私としても、感慨を新にした次第です。しかし、青木さんは拘留中、朝夕ともにアメリカの国旗に敬礼しなければならなかったことを屈辱と感じたと話されました。さもありなんとの思いです。
お孫さんたちの話の中で「再び戦争はすべきではない」と強い口調で発言されたことは、さすがに立派だと感じました。部隊の3分の2が帰らぬ人となったのですから、その方々の分まで元気で長生きされることを願って青木宅を後にしました。畑の大根を二本、日本お土産として頂戴しました。有難うございました。
(聞き手 岡崎不二夫 昭和11《1936》年生)
“ガツン"胸に、体中に感じたことのない衝撃《しょうげき》を受けました。
西川さんは疎開されていた時のつらい生活とその心の内を話しでくれました。同席された高橋さんは、この地[善行]がおかれていた状況とご主人が外地に行かれ残された家族のことを話してくれました。
「空襲警報」発令で防空壕へ、「警戒警報」発令では家の電灯を黒い布で覆って真っ暗に。
「現役」と「召集」の違い、予科練、機銃、赤紙・‥。映画や本でしか聞いたことのない言葉を直接耳にし、お話についていくのに必死でした。現実とは思えない出来事の数々‥・。“実際に体験されたことなのだ。本当におこった事実なのだ" そう何度も心は訴たえなければとても考えられない事ばかりでした。
灼熱の太陽の下(もと)逃げまどう 又めぐり来る 戦(いくさ)の記憶
西川さんはいいました。夏の暑い時期がくると毎年おもいだすのよ。
そしてもうひとり同席された91歳の斉藤さんはいいました。 「つらいことは、なかっったよ」・・・と。その言葉がずしりと重く心に突さ刺さり残っています。
私は、今日聞かせていただいた貴重なお話をしっかり受けとめ心に刻み、自分の友人や子供達に伝えていきたいと思いました。 そして平和への感謝の気持ちと大切なもの、守っていくべきものを見失ってはならないということを改めで感じました。
(聞き手 石塚由加里 昭和39《1964》年生)
「引揚船 乗り遅れで命拾う」
藤沢市 武田きよ子(昭和3《1928》年生)
(あらすじ)
昭和20年8月15日、樺太川上町から女子供だけの引き上げが始まった。慌しく食物と着替え少々をリュックに詰め、父と別れて母と2人、北海道の親戚を頼りに身を寄せることになった。その日の夜、大泊港に向けて、土砂降りの雨の中汽車で出発。汽車は木材運搬用で屋根もなく横板もなかった。雨の中13時間汽車に揺られ、朝8時頃着いた。大泊港は多くの倉庫が立ち並び、内地からの品物が荷揚げされる所だった。倉庫には空きがなく、人々で一杯だった。倉庫を仮住まいにして自炊する人もいた。
私達は役場の人からお握りや味噌汁等を貰った。私達6人は郵便局員だったので、そのうち船に乗れるだろうと思っていたが、私は風邪をひき38度の熱が出た。
そんな時に逓信局の船が出ると知らせがあり、郵便局関係の人も乗れたが、私はまだ熱があったので乗船しなかった。仲間も「私を残して行けない」と一緒に残り、3日程遅れて出港した。それで命が助かったのだと後に分った。逓信局関係の船は、魚雷でやられていた。樺太とは音信不通で2年位は生死が分らなかった。私の父も半分はあきらめていたらしい。
5年程前に詩吟《しぎん=漢詩を詠う》「氷雪の門」と出合った。樺太真岡で電話交換手9名の乙女が交換台を最後まで守り通して内地に連絡し、ソ連軍と戦いあの世に旅立った話だった。私も交換台や電報通信機を守り、局に泊まり込んでお国の為と頑張った。空襲警報は1日に何回となくあったが、本当の空襲には遭わずに終戦を迎えた。
(お話を聞いて)
樺太から引き上げ船で本土に帰国寸前の夜、幸か不幸か、発熱のため帰国を遅らせた体験は、生死の境で、先に乗船した方々は魚雷による沈没のお話で、心に残るお話で胸が熱くなりました。まさに「九死に一生を得た」辛く悲しい心の内を思い感動しました。
当時、樺太から本土北海道への海中は、魚雷が水面下にあったと同様だとのこと。真岡電話局にソ連軍が侵攻したが、最後まで内地の皆さんのためと交換台を守り抜き、あの世に旅立った9人の女性がおり、最後に「さようなら、さようなら‥・」と打電したそうです。私たちの知らない樺太でのソ連軍の侵略も詩吟「氷雪の門」を通して知りました。
武田きよ子さんの詩吟を聞き、感慨無量です。そして、この感動を次の世代へ伝えていこうではありませんか。平和への願いと共に。
(聞き手 川勝良子 昭和7《1932》年生)
「斬り込み作戦隊長戦死、始まるジャングル生活」
茅ヶ崎市 青木 功(大正12《1923》年生)
(あらすじ)
昭和19年3月に教育召集で東部第8部隊に入隊。3ケ月の教育の後臨時召集になり、引き続き同隊に入隊。7月に門司港を出てマニラへ。セブを経てミンダナオ島《フィリッピン群島南東部》ザンボアンガに上陸。私は経理の経験があったので、大隊本部の経理部で帳簿記録や各隊への食糧配布勤務につき、陣地構築などの労働は免れた。
20年3月10日にはアメリカ軍が上陸してきて、13日から3日間の夜間の斬り込み作戦で大隊長が戦死した。20日には半島の西海岸を目指して退却、ジャングル生活が続いた。この間には食糧調達の為、現地の民家を襲撃して籾《もみ》を盗んだり、畑で芋を盗んだりした。フィリピンの人には申し訳ないことをした。
困ったのは塩。夜間に海岸まで行って塩を汲んできた。水と火がないと生活できないので、ねぐらを探すのは水のあるところだった。マラリヤや栄養失調で山の中で死んでいる人をたくさん見た。隊についていけない人は死んでしまった。結果的には隊の3分の2が戦死や戦病死だった。
もう少し早く終戦がわかって、投降していればこんなに犠牲者は出なかったかも。10月20日にやっと米軍のザンボアンガ収容所に投降、25日にレイテ島タクロバン収容所に移送された。ここにほとんどの兵が収容された。11月28日浦賀港に帰国。帰ってきた同僚で、フィリピンの山中に慰霊碑を作った。1年おきに参拝していたが、昭和50年からはあまり行けてない。私は3月10日の米軍上陸の日は忘れられない。絶対に戦争はダメだ。
(お話を聞いて)
青木功さんは82歳、お元気です
しかし、戦後体を悪くし入院されたこともあるそうです。子育ての時期で、奥さんが大変ご苦労されたとのことです。やはり、戦地でのご苦労が原因のようです。山中でさ迷い食料調達が困難で、水牛なども食べた話もされました。アメリカ軍に拘留《こうりゅう=捕らえられる》されてからは、缶詰などが中心であっても、十分な食事が出来たこと、コーヒーまでも出されたことなど、当時の日米の物量の差について青木さんの口から感慨深く語られました。戦中・戦後に食糧難(ひもじい思い)を経験した聞き手の私としても、感慨を新にした次第です。しかし、青木さんは拘留中、朝夕ともにアメリカの国旗に敬礼しなければならなかったことを屈辱と感じたと話されました。さもありなんとの思いです。
お孫さんたちの話の中で「再び戦争はすべきではない」と強い口調で発言されたことは、さすがに立派だと感じました。部隊の3分の2が帰らぬ人となったのですから、その方々の分まで元気で長生きされることを願って青木宅を後にしました。畑の大根を二本、日本お土産として頂戴しました。有難うございました。
(聞き手 岡崎不二夫 昭和11《1936》年生)
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