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『肉声史』 戦争を語る (26)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (26)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/9/7 7:46
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
「内地生活食料苦労」

 茅ヶ崎市 中島 昇(大正9《1920》年生)

 昭和7年に父を亡くし、母の実家がある茅ヶ崎市小出村で家族4人下宿していた。昭和15年に徴兵検査を受け、村の農業会へ勤めることになった。第2国民兵だったが、私は召集されなかった。
 神奈川県農業会《=後に農業協同組合ができたので解散》小出村駐在として村の食糧増産と米の供出割り当ての確保が主な仕事だった。各自治会毎に生産組合があって、個人別に県からの割り当てを振り分ける。村には町からの縁故疎開《えんこそかい=空襲を逃れて親戚等に身をよせる》が大勢いた。1軒家を借りている人と農家の納屋を借りている人がいたが、惨めな思いをしたのは後者。
 農家本家はたっぷりの食事で、自分達は芋や雑穀の配給だけだったから。近隣からの買出し者も多かった。私は駐在がはかりでチェックする手伝いをしていた。嫌だったのは、子供がせっかく着物と交換してきたうどん粉等が駐在のチェックにかかって取り上げてられてしまったこと。国民学校6年の女の子が泣いていたので、卵をこっそりあげた思い出がある。買出しの品は芋やうどん粉が多かった。野菜は自家用程度しか作っていなかった。主食が一番の時代だった。厚木航空隊に卵を納めていたこともあった。 電車を乗り継いで代金を取りに行き、途中で空襲にあった。翌日マッカーサーが来るという時に行ったら、格納庫にも滑走路にも飛行機なく、兵もいない。びっくりした。平塚の火薬廠《かやくしょう》や横浜がやられているのも見た。村は養蚕が主だったのに、食糧増産で桑畑がさつま芋畑に。昭和18年には桑畑がなくなった。終戦には呆然自失だった。

 (お話を聞いて)

 内地(地元小出)での戦争体験談でした。旧小出村は、堤、芹沢、行谷、遠藤、下寺尾の5つで構成され、当時610戸1800人ほどの村だったとの事。
 徴兵検査で「丙」となり食料供出の検査を担当、さまざまな経験をされた由。疎開で納屋を借りた母子は、一戸建ての家を借りた母子と違い、母屋の農家の子は、食物に恵まれていたが、納屋の子供はそれを見ながら食物が悪く「ひもじい思い」をしており可哀想だった話。農家に「買出し」に着た小さな子供から、駐在が食料を取り上げたため、泣いている子が不偶と、中島さんは、卵をそっと渡してかえらせた話。食料を供出できない農家に供出要請に同行訪問したときは、障子の影から「帰れ」と言われた話。
 食料にまつわる話に、戦前戦後を茅ヶ崎で食糧難を経験し、「ひもじい思い」を今でも忘れない世代として「さもありなん」という思いを強くしました。中島さんから戦後になってからも「軍隊に協力した」と悪口を浴びた話などあり「戦争はいけない」「争いはいけない」との思いを静かに語ってくれました。

 (聞き手 岡崎不二夫 昭和11《1936》年生)

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編集者 (代理投稿)

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