『肉声史』 戦争を語る (38)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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「まさに九死に一生」
大和市 久世 菊雄 (大正7《1918》年生)
(あらすじ)
22歳で入隊,甲種合格は誇らしかった。兄も工兵隊であった。新兵は夜9時まで勉強。
イロハニホヘトを早く書く練習を不思議に思ったが、後で、通信文を早く書く練習と分った。サイパンに船団8艘《そう》で行くが4艘がやられてしまった。戦友を助ける間も無く逃げ帰った。その後本土決戦のため伊豆七島の新島に行く。結局終戦までいた。
外地にも無線電信教育隊としていっていたこともある。敵機は一日1回偵察に来る。あるとき海面すれすれに敵機が襲ってきて機銃掃射し200キロ爆弾を落としていった。そのために乗っていた船が垂直に立ってしまい、船長室にとじこめられた。ガラス窓を壊し外に何とか出た。九死に一生であった。そんな時でも思うのは部下のことばかりであった。
その後は、日本本土への空襲が始まり三宅島上空に戦闘機B29《アメリカの大型爆撃機》が100機も編隊を組んで東京のほうへ向かっていくのを見る。内地の家族が心配でしょうがなかったものだ。
「死体を被って難逃れ」
大和市 大矢 東さん(大正13《1924》年生)
(あらすじ)
18歳で1年繰り上げ召集された。昭和18年に兄が戦死していたので兄の仇をとるぞと、召集は悲しいというより男としての喜びを感じた。満州国とソ連の国境、東寧という町で6ケ月の軍隊教育を受けた。昭和19年6月頃のことだった。さらに下士官候補の学校へ入り、丸1年で部隊復帰すると同時に戦闘になった。
5月には内地防備に部隊の3分の2が帰国し、1000人程が残った。 戦死は覚悟の上で5分でも10分でも食い止めろと、私を含む35人が敵を迎え撃つようにと命令された。8月8日午前2時ソ連は降伏を求めたが、応じなかったら24時間後に攻撃してきた。迫撃砲1門を30発程撃ったら敵に見破られて撃てなくなった。10m先に敵、組み合った時もあった。「生きる、死ぬ」は考えなかった。
勝つことのみ。天皇陛下の為なんて考える暇ない。20日には慰問袋を持てるだけ持って歩兵の蛸壷で敵を待ち構えた。そこへ古年兵がビールと酒持ってきた。私は空腹に飲んだから酔て、眠ってしまった。気がついたら膝まで土に埋まっていた。相当な人数が通り過ぎて土が落ちてきて、激戦があったらしい。本当にひどい話ばかりで、今も話したくない位。夜中の襲撃は何回もあった。動くと銃剣で刺されるので、死体をおぶって難を逃れた。
24日に約30人で陣地脱出した。それから翌年の5月20日まで終戦知らず、山の密林地帯を逃げながら戦闘を続けた。30人の仲間は、戦死や凍傷、自決、途中で置いてきたりで最後には4人になっていた。蛙、蝮《まむし》、鼠《ねずみ》と何でも食べた。草だけで2ケ月生きていたこともあった。昭和21年の8月末に帰国した。
(お話を聞いて)
戦争体験を力強く、時には坦々と、人ごとのように話される大矢さん、きのうの出来事のように60年前を生々しく言葉にされる大矢さん。私も、身内や親戚で同じような体験談を日本昔話のように聞いて育ち少しは知っているつもりでいましたが、あにはからんや、爆撃の音や、砂ぼこり、生臭い空気を五感に感じ、ぐいぐいと重く、暗い戦場へ引き込まれてしまいました。
昭和20年8月、ソ連と満州の国境、第一国境備隊37名、「戦死を覚悟」で死闘の末、生存者4名の内の一人になり、その後終戦を知らず戦闘を繰り返しながら、飢えと寒さの酷寒地をさ迷い、翌21年9月に日本へ帰還、「本当は言いたくないんだよ」と。地獄のような話はしたくないと時折口にされつつも、よどみなく話をしてくださいました。
あの大東亜戦争は「一体なんだったのだろう」と思うと、ただただ情けなく思えてならないと話す姿に、うなずく以外言葉をかけられない。胸がつまり無性に腹が立っていた。戦争体験が私の財産だという大矢さん、戦争で散った戦友の思いが自分を生かしてくれているのだと、命がけの体験がその後の生き方を大きく変えたと話す口調は81才の老人でなく、前向きに社会のためにと力を込めて話す21歳の若者の語りでした。「戦争はあってはならないもの」、「戦争は絶対してはいけないよ」大矢さんの云われる通り、世界の万人が平和を願っていてもおろかな人類は、戦いを止めようとしない。
テープ終了後も、話はつきなかった。今回聞き手としての役目は不十分なものでしたが、日が経つにつれ、あたりまえのように生きていけることに感謝と、胸をえぐられた感情を風化させることなく、今度は私がこの体験談を一人でも多くの人に語れたらと思っています。「真の平和を」子や孫に語り継ぎたい。
(聞き手 徳田信子 昭和24《1949》年生)
大和市 久世 菊雄 (大正7《1918》年生)
(あらすじ)
22歳で入隊,甲種合格は誇らしかった。兄も工兵隊であった。新兵は夜9時まで勉強。
イロハニホヘトを早く書く練習を不思議に思ったが、後で、通信文を早く書く練習と分った。サイパンに船団8艘《そう》で行くが4艘がやられてしまった。戦友を助ける間も無く逃げ帰った。その後本土決戦のため伊豆七島の新島に行く。結局終戦までいた。
外地にも無線電信教育隊としていっていたこともある。敵機は一日1回偵察に来る。あるとき海面すれすれに敵機が襲ってきて機銃掃射し200キロ爆弾を落としていった。そのために乗っていた船が垂直に立ってしまい、船長室にとじこめられた。ガラス窓を壊し外に何とか出た。九死に一生であった。そんな時でも思うのは部下のことばかりであった。
その後は、日本本土への空襲が始まり三宅島上空に戦闘機B29《アメリカの大型爆撃機》が100機も編隊を組んで東京のほうへ向かっていくのを見る。内地の家族が心配でしょうがなかったものだ。
「死体を被って難逃れ」
大和市 大矢 東さん(大正13《1924》年生)
(あらすじ)
18歳で1年繰り上げ召集された。昭和18年に兄が戦死していたので兄の仇をとるぞと、召集は悲しいというより男としての喜びを感じた。満州国とソ連の国境、東寧という町で6ケ月の軍隊教育を受けた。昭和19年6月頃のことだった。さらに下士官候補の学校へ入り、丸1年で部隊復帰すると同時に戦闘になった。
5月には内地防備に部隊の3分の2が帰国し、1000人程が残った。 戦死は覚悟の上で5分でも10分でも食い止めろと、私を含む35人が敵を迎え撃つようにと命令された。8月8日午前2時ソ連は降伏を求めたが、応じなかったら24時間後に攻撃してきた。迫撃砲1門を30発程撃ったら敵に見破られて撃てなくなった。10m先に敵、組み合った時もあった。「生きる、死ぬ」は考えなかった。
勝つことのみ。天皇陛下の為なんて考える暇ない。20日には慰問袋を持てるだけ持って歩兵の蛸壷で敵を待ち構えた。そこへ古年兵がビールと酒持ってきた。私は空腹に飲んだから酔て、眠ってしまった。気がついたら膝まで土に埋まっていた。相当な人数が通り過ぎて土が落ちてきて、激戦があったらしい。本当にひどい話ばかりで、今も話したくない位。夜中の襲撃は何回もあった。動くと銃剣で刺されるので、死体をおぶって難を逃れた。
24日に約30人で陣地脱出した。それから翌年の5月20日まで終戦知らず、山の密林地帯を逃げながら戦闘を続けた。30人の仲間は、戦死や凍傷、自決、途中で置いてきたりで最後には4人になっていた。蛙、蝮《まむし》、鼠《ねずみ》と何でも食べた。草だけで2ケ月生きていたこともあった。昭和21年の8月末に帰国した。
(お話を聞いて)
戦争体験を力強く、時には坦々と、人ごとのように話される大矢さん、きのうの出来事のように60年前を生々しく言葉にされる大矢さん。私も、身内や親戚で同じような体験談を日本昔話のように聞いて育ち少しは知っているつもりでいましたが、あにはからんや、爆撃の音や、砂ぼこり、生臭い空気を五感に感じ、ぐいぐいと重く、暗い戦場へ引き込まれてしまいました。
昭和20年8月、ソ連と満州の国境、第一国境備隊37名、「戦死を覚悟」で死闘の末、生存者4名の内の一人になり、その後終戦を知らず戦闘を繰り返しながら、飢えと寒さの酷寒地をさ迷い、翌21年9月に日本へ帰還、「本当は言いたくないんだよ」と。地獄のような話はしたくないと時折口にされつつも、よどみなく話をしてくださいました。
あの大東亜戦争は「一体なんだったのだろう」と思うと、ただただ情けなく思えてならないと話す姿に、うなずく以外言葉をかけられない。胸がつまり無性に腹が立っていた。戦争体験が私の財産だという大矢さん、戦争で散った戦友の思いが自分を生かしてくれているのだと、命がけの体験がその後の生き方を大きく変えたと話す口調は81才の老人でなく、前向きに社会のためにと力を込めて話す21歳の若者の語りでした。「戦争はあってはならないもの」、「戦争は絶対してはいけないよ」大矢さんの云われる通り、世界の万人が平和を願っていてもおろかな人類は、戦いを止めようとしない。
テープ終了後も、話はつきなかった。今回聞き手としての役目は不十分なものでしたが、日が経つにつれ、あたりまえのように生きていけることに感謝と、胸をえぐられた感情を風化させることなく、今度は私がこの体験談を一人でも多くの人に語れたらと思っています。「真の平和を」子や孫に語り継ぎたい。
(聞き手 徳田信子 昭和24《1949》年生)
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編集者 (代理投稿)