『肉声史』 戦争を語る (56)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
「米兵の顔見えた艦載機の空襲」
松田町 山岸 浪子(大正11《1922》年生)
(あらすじ)
松田町に住んでいたが、毎日空襲だった。朝8時になると警戒警報のサイレンが鳴り、少し経つと空襲警報に。防空壕に入って解除を待った。勤労奉仕で松の根掘りに行った。松根油を作る為だった。相模湾に敵が上陸した時に備えて、松田山に防空壕掘りの手伝いにも行った。山の頂上まで2時間歩いて、厚い板を担いで死にもの狂いで運んだ。
国防婦人会のたすきを掛けて出征兵士の見送りもした。山へ供出のさつま芋を掘りに行った時、敵の艦載機《=空母につまれた飛行機》が地面すれすれの低空飛行で飛んできて、米兵の顔が見えた。恐ろしくて生きた心地がしなかった。山には木がなく、地面に張り付いてじっとしていた。困ったことは、食料のなかったこと。さつま芋の種芋、鶏が食べるふすま《小麦をひいて残る皮のくず》や油を絞った残りの油かすなどを食べた。よく生きていたと思う。楽しい思い出はなかったが、しいて言うなら軍事郵便の「戦地よりの便り」で私達もがんばらねばと思った。隣近所は、どんな物でも分け合って、お互い助け合って生きてきた。 皆仲良く一つにまとまり、銃後《=戦場の後方で、》の守りをした。今とは違って、核家族とか孤独死等聞かなかった。どこの家でも7、8人の大家族で、子供も働き手の一員としてよく家の手伝いをした。終戦は敗戦だったので複雑だった。今日から明かりつけて安心して眠れると思うと嬉しかった。私達に青春はなかった。よくここまで、食べる物もなく栄養等考えたこともなく、気力で夢中で生きてきたと思う。戦争は二度と繰り返してはいけない。
「残したいこと それは世界の平和」
松田町 尾嶋 久和(大正11《1922》年生)
(あらすじ)
赤紙が来た時は教育召集だったが、とうとう私にも来たかという感じだった。昭和19年4月1日から満州へ。そこからソ満国境、中支《=中国大陸の中部》の広州へ行って、また満州に帰って来た。
その後、今のアフガニスタン北方200km位のソ連のカラカンダ地区へ行った。軍隊では通信兵で、電信の授受《=受け渡し》を練習し、沖縄とのやりとりをした。
ソ連では労働作業した。恐ろしかったのは、広州で班長の遺骨を持って上海に行った帰りにP51に襲われたことと、ソ連に入って移動のたびにどこへ連れて行かれるのかわからなかったこと。辛かったことは、ソ連での寒い冬の作業。
嬉しかったのは、内地へ帰れると船に乗れたことと、内地の舞鶴港の山々を見た時。帰国した時は、とうとう無事に帰れたという思いのみだった。戦地での生死を越えての苦労を二度と若い世代に残したくない。残すのは世界平和だと思う。
(お話を聞いて)
戦争体験者である尾島さん(男性)と山岸さん(女性)のお二人にお話を伺いました。
実は、こんなに身近で戦争体験者のお話を伺うのは初めてのことで、少し緊張しました。
インタビューを始める前に、戦争当時の雑談をしていました。実際に外地に出向いた尾島さんは、「100キロの荷物を長時間担がされたこと」、「燃料を敵から盗みにいったこと」、「病気になったこと」、「さみしかったこと」などを話されていました。国内に残った山岸さんは、戦争に行った夫の帰りを、子供の世話、仕事をしながら必死に待っていたそうです。しかしながら「2年で帰ってくるからそれまで待っててくれ」と言い残されたまま今でも帰ってこないよと笑いながらも涙を浮かべていました。そんな雑談にこそ、当時を必死に生きた体験者の苦労や思い出がたくさん詰まっていると感じました。
インタビューは、あまりに堅苦しくて私も含めて硬い感じで終了しました。でも、私にとっては、本当に貴重な体験となりました。山岸さんは「幸せだと感じることがある?」と私に聞きました。私は突然の質問に無言になってしまい、「特に最近はないかな‥・。」と答えました。山岸さんは続けて「今の時代は何でも手に入るし、何でも食べれる。だから毎日が幸せで、本当に幸せだと感じることがないんだよ。」とはっきり言いました。そして「戦争時代は食べ物がない。もちろんお金はない。そしていつ死ぬかもわからない。そんな中で子供を育てながら自分も生き抜くには、たすけあって、たすけあって、一生懸命何でも耐えること。そうでなきや生き残れない時代だったんだよ。加えて、旦那がいない家庭で、自分が死ねば子供は全員死んでしまうよ。」私は、そんな時代に生きぬいた人だからこそ、強くて、優しい、そして我慢強い人間になれたのに違いないと感じました。今の私のつらいことなど本当にささいなことで、我慢できないからといって投げ出すことの出来ない戦争時代を考えると改めてゾッとします。
最後に山岸さんは、インタビューの最後の戦争を知らない人へのメッセージで次のように言い残しました。「あの悲惨な戦争は私たちだけで十分。決して孫やその次の世代にも絶対に経験させてはなりません。私も平和を祈念しながら残りの余生を過ごします」と。お二人は、「戦争を思い出すのも本当はいやなんだよ」と涙ながらに語ります。私たち戦争を知らない世代ができること、それはこの戦争体験者のお話が録音されたテープを次の世代にそして次の世代がまたその次の世代に語り継いでいくことだと強く感じました。
(聞き手 神谷亜美 平成2《1990》年生)
松田町 山岸 浪子(大正11《1922》年生)
(あらすじ)
松田町に住んでいたが、毎日空襲だった。朝8時になると警戒警報のサイレンが鳴り、少し経つと空襲警報に。防空壕に入って解除を待った。勤労奉仕で松の根掘りに行った。松根油を作る為だった。相模湾に敵が上陸した時に備えて、松田山に防空壕掘りの手伝いにも行った。山の頂上まで2時間歩いて、厚い板を担いで死にもの狂いで運んだ。
国防婦人会のたすきを掛けて出征兵士の見送りもした。山へ供出のさつま芋を掘りに行った時、敵の艦載機《=空母につまれた飛行機》が地面すれすれの低空飛行で飛んできて、米兵の顔が見えた。恐ろしくて生きた心地がしなかった。山には木がなく、地面に張り付いてじっとしていた。困ったことは、食料のなかったこと。さつま芋の種芋、鶏が食べるふすま《小麦をひいて残る皮のくず》や油を絞った残りの油かすなどを食べた。よく生きていたと思う。楽しい思い出はなかったが、しいて言うなら軍事郵便の「戦地よりの便り」で私達もがんばらねばと思った。隣近所は、どんな物でも分け合って、お互い助け合って生きてきた。 皆仲良く一つにまとまり、銃後《=戦場の後方で、》の守りをした。今とは違って、核家族とか孤独死等聞かなかった。どこの家でも7、8人の大家族で、子供も働き手の一員としてよく家の手伝いをした。終戦は敗戦だったので複雑だった。今日から明かりつけて安心して眠れると思うと嬉しかった。私達に青春はなかった。よくここまで、食べる物もなく栄養等考えたこともなく、気力で夢中で生きてきたと思う。戦争は二度と繰り返してはいけない。
「残したいこと それは世界の平和」
松田町 尾嶋 久和(大正11《1922》年生)
(あらすじ)
赤紙が来た時は教育召集だったが、とうとう私にも来たかという感じだった。昭和19年4月1日から満州へ。そこからソ満国境、中支《=中国大陸の中部》の広州へ行って、また満州に帰って来た。
その後、今のアフガニスタン北方200km位のソ連のカラカンダ地区へ行った。軍隊では通信兵で、電信の授受《=受け渡し》を練習し、沖縄とのやりとりをした。
ソ連では労働作業した。恐ろしかったのは、広州で班長の遺骨を持って上海に行った帰りにP51に襲われたことと、ソ連に入って移動のたびにどこへ連れて行かれるのかわからなかったこと。辛かったことは、ソ連での寒い冬の作業。
嬉しかったのは、内地へ帰れると船に乗れたことと、内地の舞鶴港の山々を見た時。帰国した時は、とうとう無事に帰れたという思いのみだった。戦地での生死を越えての苦労を二度と若い世代に残したくない。残すのは世界平和だと思う。
(お話を聞いて)
戦争体験者である尾島さん(男性)と山岸さん(女性)のお二人にお話を伺いました。
実は、こんなに身近で戦争体験者のお話を伺うのは初めてのことで、少し緊張しました。
インタビューを始める前に、戦争当時の雑談をしていました。実際に外地に出向いた尾島さんは、「100キロの荷物を長時間担がされたこと」、「燃料を敵から盗みにいったこと」、「病気になったこと」、「さみしかったこと」などを話されていました。国内に残った山岸さんは、戦争に行った夫の帰りを、子供の世話、仕事をしながら必死に待っていたそうです。しかしながら「2年で帰ってくるからそれまで待っててくれ」と言い残されたまま今でも帰ってこないよと笑いながらも涙を浮かべていました。そんな雑談にこそ、当時を必死に生きた体験者の苦労や思い出がたくさん詰まっていると感じました。
インタビューは、あまりに堅苦しくて私も含めて硬い感じで終了しました。でも、私にとっては、本当に貴重な体験となりました。山岸さんは「幸せだと感じることがある?」と私に聞きました。私は突然の質問に無言になってしまい、「特に最近はないかな‥・。」と答えました。山岸さんは続けて「今の時代は何でも手に入るし、何でも食べれる。だから毎日が幸せで、本当に幸せだと感じることがないんだよ。」とはっきり言いました。そして「戦争時代は食べ物がない。もちろんお金はない。そしていつ死ぬかもわからない。そんな中で子供を育てながら自分も生き抜くには、たすけあって、たすけあって、一生懸命何でも耐えること。そうでなきや生き残れない時代だったんだよ。加えて、旦那がいない家庭で、自分が死ねば子供は全員死んでしまうよ。」私は、そんな時代に生きぬいた人だからこそ、強くて、優しい、そして我慢強い人間になれたのに違いないと感じました。今の私のつらいことなど本当にささいなことで、我慢できないからといって投げ出すことの出来ない戦争時代を考えると改めてゾッとします。
最後に山岸さんは、インタビューの最後の戦争を知らない人へのメッセージで次のように言い残しました。「あの悲惨な戦争は私たちだけで十分。決して孫やその次の世代にも絶対に経験させてはなりません。私も平和を祈念しながら残りの余生を過ごします」と。お二人は、「戦争を思い出すのも本当はいやなんだよ」と涙ながらに語ります。私たち戦争を知らない世代ができること、それはこの戦争体験者のお話が録音されたテープを次の世代にそして次の世代がまたその次の世代に語り継いでいくことだと強く感じました。
(聞き手 神谷亜美 平成2《1990》年生)
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編集者 (代理投稿)