『肉声史』 戦争を語る (18)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
湘南ブロック
「戦時はつらく、戦後なおつらく」
平塚市 見留 豊(昭和11《1936》年生)
(あらすじ)
昭和18年国民学校に入学した。 19年には空襲が激しくなり、建物疎開といって、空襲時に延焼を防ぐため強制的に建物を壊した。横浜の自宅も建物疎開で壊され、平塚へ疎開してきた。兄は学校の都合上、横浜の叔母の家に残ったが昭和20年の横浜大空襲で、防空壕の中で焼け死んだ。 17歳だった。同年7月の平塚の大空襲は空が真っ赤だった。私か疎開している所は市街から10km位離れていたが、翌朝も灰が飛んできた。敵の艦載機の補助タンクが落ちていたのを駐在さんが警備していた。またある時は、敵機が通信妨害のために錫《すず=金属元素》を落としていた。晴れた日はキラキラしてきれいだった。終戦で大人の言うことがガラッと変わった。教科書の軍国主義の部分は墨で消して使った。学校には奉安殿《ほうあんでん=注1》があって、天皇陛下の御真影が収められていたが、それも戦後は埋められた。二宮金次郎の像もいけないと言われた。戦後サイレンの音を聞くと、空襲警報思い出してドキッとした。
戦時中も食糧不足だったが、戦後、兵が復員したら口数が増えてますます悪くなった。男の人は辞書の紙に蓬《よもぎ=キク科の多年草》を刻んで巻いてタバコの代わりにした。皆工夫して食糧調達した。今では想像つかない生活だった。日本人特有の癖「精神力」のみの戦いだった。母が畑を借りて作物を作っていた。畑まで重たいリヤカー《和製語=物を運ぶための動力元のない二輪車》を運ぶのが大変だった。今は自由にやりたいことができて恵まれている。若い人は戦争の怖さを知らないが、平和をいつまでも維持して欲しい。
「平塚空襲 煙くすぶる中家さがし」
平塚市 鈴木主悦(大正15《1926》年生)
(あらすじ)
大学の時に兵隊検査。昭和20年8月25日に入隊予定だった。兵隊に行かなくても学徒動員《注2》で働かされた。旧制中学5年時に綾瀬飛行場に防空壕を掘りに行った。小学校の講堂に寝泊りして、朝トラックによって軍歌を歌いながら現場へ向かった。そこからは零戦《ゼロせん=日本海軍の主力戦闘機》、月光、雷電等の飛行機が離陸して行く。時々墜落現場を見た。予科練《=海軍飛行予科練習生の略》に憧《あこがれ》れていたが現実を目の当たりにして嫌だった。そこは待遇が良く、食べ物が良かった。その後、藤沢の螺子《ねじ》工場へ。銃弾を作らされた。 B29が来て、私は炉の担当で明るかったからここを目がけて撃ってくる。大きな防空壕があってそこへ逃げ込んだ。戦争のお陰じやないが、友達ができたことは嬉しかった。藤沢の工場の寮にいた時、親友に召集が来て、彼の実家の三浦半島まで見送りに行った。その日は平塚が空襲だというのに灯りも消さず夜中に送別会をしていた。飛んでいる飛行機が敵機だと気づき、山へ逃げたら平塚の町が真っ赤だった。
翌日横須賀駅まで行ったら、電車が走っていたので会社に帰った。すでに私にも召集令状来ていたから、家に帰して下さいと頼んで帰宅した。平塚は滅茶苦茶だった。焼け残った神社を目安に、煙がくすぶっている中、家を探して歩いた。自宅と親兄弟は無事だった。
終戦になって1ヶ月後、大学から出て来いと知らせが届いた。教育はガラッと変わった。
その後小学校の教師になった。人間として大切なことは平和で心豊かで人間味溢《あふ》れる社会を作ることだと思う。
注1 奉安殿=教育勅語謄本等を奉安するために学校の敷地内に作られた施設
注2 学徒動員=太平洋戦争下における労働力不足を補うため学生・生徒に対して強制された勤労動員
「戦時はつらく、戦後なおつらく」
平塚市 見留 豊(昭和11《1936》年生)
(あらすじ)
昭和18年国民学校に入学した。 19年には空襲が激しくなり、建物疎開といって、空襲時に延焼を防ぐため強制的に建物を壊した。横浜の自宅も建物疎開で壊され、平塚へ疎開してきた。兄は学校の都合上、横浜の叔母の家に残ったが昭和20年の横浜大空襲で、防空壕の中で焼け死んだ。 17歳だった。同年7月の平塚の大空襲は空が真っ赤だった。私か疎開している所は市街から10km位離れていたが、翌朝も灰が飛んできた。敵の艦載機の補助タンクが落ちていたのを駐在さんが警備していた。またある時は、敵機が通信妨害のために錫《すず=金属元素》を落としていた。晴れた日はキラキラしてきれいだった。終戦で大人の言うことがガラッと変わった。教科書の軍国主義の部分は墨で消して使った。学校には奉安殿《ほうあんでん=注1》があって、天皇陛下の御真影が収められていたが、それも戦後は埋められた。二宮金次郎の像もいけないと言われた。戦後サイレンの音を聞くと、空襲警報思い出してドキッとした。
戦時中も食糧不足だったが、戦後、兵が復員したら口数が増えてますます悪くなった。男の人は辞書の紙に蓬《よもぎ=キク科の多年草》を刻んで巻いてタバコの代わりにした。皆工夫して食糧調達した。今では想像つかない生活だった。日本人特有の癖「精神力」のみの戦いだった。母が畑を借りて作物を作っていた。畑まで重たいリヤカー《和製語=物を運ぶための動力元のない二輪車》を運ぶのが大変だった。今は自由にやりたいことができて恵まれている。若い人は戦争の怖さを知らないが、平和をいつまでも維持して欲しい。
「平塚空襲 煙くすぶる中家さがし」
平塚市 鈴木主悦(大正15《1926》年生)
(あらすじ)
大学の時に兵隊検査。昭和20年8月25日に入隊予定だった。兵隊に行かなくても学徒動員《注2》で働かされた。旧制中学5年時に綾瀬飛行場に防空壕を掘りに行った。小学校の講堂に寝泊りして、朝トラックによって軍歌を歌いながら現場へ向かった。そこからは零戦《ゼロせん=日本海軍の主力戦闘機》、月光、雷電等の飛行機が離陸して行く。時々墜落現場を見た。予科練《=海軍飛行予科練習生の略》に憧《あこがれ》れていたが現実を目の当たりにして嫌だった。そこは待遇が良く、食べ物が良かった。その後、藤沢の螺子《ねじ》工場へ。銃弾を作らされた。 B29が来て、私は炉の担当で明るかったからここを目がけて撃ってくる。大きな防空壕があってそこへ逃げ込んだ。戦争のお陰じやないが、友達ができたことは嬉しかった。藤沢の工場の寮にいた時、親友に召集が来て、彼の実家の三浦半島まで見送りに行った。その日は平塚が空襲だというのに灯りも消さず夜中に送別会をしていた。飛んでいる飛行機が敵機だと気づき、山へ逃げたら平塚の町が真っ赤だった。
翌日横須賀駅まで行ったら、電車が走っていたので会社に帰った。すでに私にも召集令状来ていたから、家に帰して下さいと頼んで帰宅した。平塚は滅茶苦茶だった。焼け残った神社を目安に、煙がくすぶっている中、家を探して歩いた。自宅と親兄弟は無事だった。
終戦になって1ヶ月後、大学から出て来いと知らせが届いた。教育はガラッと変わった。
その後小学校の教師になった。人間として大切なことは平和で心豊かで人間味溢《あふ》れる社会を作ることだと思う。
注1 奉安殿=教育勅語謄本等を奉安するために学校の敷地内に作られた施設
注2 学徒動員=太平洋戦争下における労働力不足を補うため学生・生徒に対して強制された勤労動員
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