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『肉声史』 戦争を語る(52)

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通常 『肉声史』 戦争を語る(52)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/10/4 6:29
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
食べることさえ出来れば毎日が続く」

 南足柄市 内田 一夫(大正13《1924》年生)

 (あらすじ)

 昭和19[年に兵隊検査を受け、翌年2月に川崎溝口《みぞのくち》東部62部隊に入隊した。20歳だった。この頃から戦争が激しくなり、内地でも毎日空襲でB29《=米軍爆撃機》による偵察爆撃が続いた。南方で食料補給なく苦戦とか、玉砕《ぎょくさい=全力で戦い、名誉・忠節を守って潔く死ぬ》というニュースを時々聞くようになった。内地では昭和19年9月頃から学童疎開が始まり、私達の部落にも川崎から約60名位が公民館やお寺に疎開してきた。親元を離れた幼い子供の為に入隊前の日々を使おうと、世話を手伝った。
 子供達に見送られての入隊となった。溝口は歩兵部隊で、出てきた食事が赤飯だと思ったらコーリャン《=モロコシの一種》だったのには驚いた。終戦までの約7ケ月間コーリャンを食べ続けた。
 終戦後、駐屯地《ある土地にとどまる》が変わって初めて麦飯を食べられた。誰一人不満を漏《も》らさず食えることができればいいのだと毎日生活していた。溝口は編成部隊で、県内から集められた兵が編成されていた。本土防衛の任務だった。私の入隊時でも装備がなく水筒と雑嚢《ざつのう=肩から掛ける布製のかばん》だけだったが、5、6月に入った兵は身に着ける物は何もなかった。編成の点呼中、郷里の人達が入ってきた。
 小学6年時の先生も中にいて懐かしかった。終戦後は補助憲兵として東京へ。
 高輪女学校に駐留し、大船の捕虜収容所と北白川邸の警護を担当。収容所にはアメリカ軍の飛行機から落下傘で救援物資が落とされた。缶詰が主だった。それを見て、10年も20年も進んだ国と戦争していたのだとびっくりした。その後、板橋の兵器廠《兵器の購入・保管・支給・修理などを行う機関》で外国のMP《エムピー=米国陸軍憲兵隊》と一緒に兵器の残務整理をした。昭和20年10月に任務が終わり、兵隊から解放された。

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編集者 (代理投稿)

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