『肉声史』 戦争を語る (20)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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(鈴木さんのお話を聞いて)
学徒動員時代に平塚大空襲を目のあたりにした鈴木様からは、中学校の校長先生だったとき卒業生に向けたメッセージがある。
「頭の働きを良くする原動力は身体の健康である。頭がどんなに良くても身体が弱くては、頭を十分に働かせることは出来ません。健康のために身体を鍛えておくことです。皆さんは学校を出てから、社会人となり21世紀に活躍する皆さんです。そのとき学校で鍛えた体力、知力、精神力を持って世の中のために役立つ人になってください。人間として大切なことは、平和で心豊かな人間味あふれる社会を作り出すことだと思います。この願いを実現するために各自が自分の力に応じて努力していくことが大事です。理想は常に高く持って、しかも一歩一歩自分の足元をしっかり見つめて進もう。」と。
(三留さんのお話を聞いて)
縁故《=親戚など》疎開で横浜から平塚にこられて10歳で終戦を迎えた三留様からは、“私の昭和20年「戦時下の日常生活」ということで、「60年前、日本人はいままでは想像もつかない日々を送っていた」のフレーズは、平成17年の1年間、NHK・BSテレビ[あの日・昭和20年の記憶]の冒頭のナレーションそのものであった。
「当時国民学校3年生の私にとって昭和20年は激動の年であった。前年に横浜市西区から現在地(当時は中郡大根村)に疎開したが、20年に入ると登下校の通学路約1、5キロこは、数箇所に防空壕が設けられた。出征兵士には、集落総出で村の神社武運長久や戦勝祈願の旗行列で壮行《=盛大に送り出す》し、出征の都度繰り返されたのである。夜間は、室内の灯かりが外に漏れないよう、裸電球《=笠のない電球》を黒布で覆《おお》う灯火管制がしかれ、不自由な生活を余儀なくされた。米軍機による空襲は激しさを増し5月29日の横浜大空襲で、兄は学業半ばの17歳で亡くなった。7月16日の夜間には、10キロ程離れた平塚市街地が空襲に遭い、夕空特有のフアンタスティックな茜《あかね》色ではなく、市街地方向が不気味な紅蓮色《=燃える炎の色》で夜空を焦がしていた。時に米軍機は、不用になった燃料補助タンクを投棄し田畑に落下した不気味な物体を遠巻きに眺め、強烈かガソリンの臭気を始めて嗅《か》いだものだった。物量に勝り国力の遠いが勝敗の分岐点《=わかれめ》であり、所詮《しょせん》、精神力・神頼みではダメであることは、終戦後数年を経て知ることとなった。昨年は戦後60年の節目を向かえ、マスメディアは、その特集で賑わったが、昭和20年を知るものには、時の流れの早さに驚きを覚えるとともに、改めて、平和の大切さを痛感した。」とのお話であった。
戦争とは不幸もたくさんつれてきます。戦争を経験していない世代でも映画や本などで戦争は知っています。しかし、本当に命のやり取りが、日常生活の中まで関わってくるという事を直接お話を頂いて少しは分かったように思います。私の父からも母からも今までこうして真剣に戦争に関する話を聞いたことがありませんでした。つらい話を胸の中に押し込めて、今日の日本を支えてくださった人々への感謝を忘れず、風化することの内容にいろいろな形で語り継いでいかなくてはと心に誓いました。
聞き手後藤陽子(昭和33《1958》年生)
学徒動員時代に平塚大空襲を目のあたりにした鈴木様からは、中学校の校長先生だったとき卒業生に向けたメッセージがある。
「頭の働きを良くする原動力は身体の健康である。頭がどんなに良くても身体が弱くては、頭を十分に働かせることは出来ません。健康のために身体を鍛えておくことです。皆さんは学校を出てから、社会人となり21世紀に活躍する皆さんです。そのとき学校で鍛えた体力、知力、精神力を持って世の中のために役立つ人になってください。人間として大切なことは、平和で心豊かな人間味あふれる社会を作り出すことだと思います。この願いを実現するために各自が自分の力に応じて努力していくことが大事です。理想は常に高く持って、しかも一歩一歩自分の足元をしっかり見つめて進もう。」と。
(三留さんのお話を聞いて)
縁故《=親戚など》疎開で横浜から平塚にこられて10歳で終戦を迎えた三留様からは、“私の昭和20年「戦時下の日常生活」ということで、「60年前、日本人はいままでは想像もつかない日々を送っていた」のフレーズは、平成17年の1年間、NHK・BSテレビ[あの日・昭和20年の記憶]の冒頭のナレーションそのものであった。
「当時国民学校3年生の私にとって昭和20年は激動の年であった。前年に横浜市西区から現在地(当時は中郡大根村)に疎開したが、20年に入ると登下校の通学路約1、5キロこは、数箇所に防空壕が設けられた。出征兵士には、集落総出で村の神社武運長久や戦勝祈願の旗行列で壮行《=盛大に送り出す》し、出征の都度繰り返されたのである。夜間は、室内の灯かりが外に漏れないよう、裸電球《=笠のない電球》を黒布で覆《おお》う灯火管制がしかれ、不自由な生活を余儀なくされた。米軍機による空襲は激しさを増し5月29日の横浜大空襲で、兄は学業半ばの17歳で亡くなった。7月16日の夜間には、10キロ程離れた平塚市街地が空襲に遭い、夕空特有のフアンタスティックな茜《あかね》色ではなく、市街地方向が不気味な紅蓮色《=燃える炎の色》で夜空を焦がしていた。時に米軍機は、不用になった燃料補助タンクを投棄し田畑に落下した不気味な物体を遠巻きに眺め、強烈かガソリンの臭気を始めて嗅《か》いだものだった。物量に勝り国力の遠いが勝敗の分岐点《=わかれめ》であり、所詮《しょせん》、精神力・神頼みではダメであることは、終戦後数年を経て知ることとなった。昨年は戦後60年の節目を向かえ、マスメディアは、その特集で賑わったが、昭和20年を知るものには、時の流れの早さに驚きを覚えるとともに、改めて、平和の大切さを痛感した。」とのお話であった。
戦争とは不幸もたくさんつれてきます。戦争を経験していない世代でも映画や本などで戦争は知っています。しかし、本当に命のやり取りが、日常生活の中まで関わってくるという事を直接お話を頂いて少しは分かったように思います。私の父からも母からも今までこうして真剣に戦争に関する話を聞いたことがありませんでした。つらい話を胸の中に押し込めて、今日の日本を支えてくださった人々への感謝を忘れず、風化することの内容にいろいろな形で語り継いでいかなくてはと心に誓いました。
聞き手後藤陽子(昭和33《1958》年生)
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編集者 (代理投稿)