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『肉声史』 戦争を語る (32)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (32)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/9/13 7:51
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 「体全体血しぶきに 恐ろしや落下傘爆弾」

 寒川町 金子 直則(大正7《1918》年生)

 (あらすじ)

 戦争では2回負傷している。1回目は昭和15、16年頃、身に着けていた軍人手帳に弾が当たったので助かった。
 新婚2ケ月だったので知らせに来た父も言い出しにくかったようだ。6月17日甲府連隊に集合し、21日いよいよ明日出発だと剣、テント、布鞄が支給されたが、銃は渡されなかった。皆家族に電報を打ち、22日甲府駅へ。ホームに多くの家族が見送りに来ていたが、私の家族は来なかった。電報が間に合わなかったと後日聞いた。列車が故郷の茅ヶ崎駅に近づいた時、甲府駅で妻に渡せなかった不要の衣類等の風呂敷包みに住所を書いたメモをつけて、踏み切り番の人に投げた。すると拾ってくれたので安心した。
 博多港から釜山へ。ある時、将校試験があって「将校になったら先頭で戦ってすぐ死ぬんじゃないか」と白紙で出したら、「貴様らどういう考えだ」と軍曹にしこたま殴られた。
 内心終戦が分った。中国・洞庭湖の岸辺で、敵機は見るが日本の飛行機は見なかったから。戦死や負傷した兵の不要になった銃が送られてくるのを毎日待っていた。8月に入って、のんびりと褌《ふんどし》干しをしていたら、たくさんの敵機が飛来、私達が伏せていた側に落下傘爆弾が落ちて破片が私の右腕に刺さった。棒で殴られたような刺激で全身血しぶきだった。私の後ろの戦友は即死。私は野戦病院へ運ばれた。中国で陸軍病院を転々とし、内地へ向かうため釜山へ。あの傷で未だに右腕はダメだ。

 (お話を聞いて)

 金子直則さんより体験記を聞かせていただきました。
 なにより驚いたことは、あの恐ろしい中、どんな思いで記録をつづられていられたのかと思うと、とても複雑な思いで胸が痛みました。それが体験日記となって後世へ伝えていけたら、平和の大切さを少しでもわかって頂けるのではないでしょうか。 ちょうど私の親世代の方などで子供の頃、両親から聞いた話なども思い出しました。ご自分のすぐのところに爆弾が落とされたことが一番恐ろしかったと。
 それもたびたびで戦死者や負傷者が沢山出てしまい、破片がご自分の腕に刺さってしまった事や、胸に入れていた軍隊手帳に命を助けられたこともあったそうです。お持ちいただいた手帳には、白く破れているところがありました。そこに弾があたったとのことでした。そんな体験を何度となくされる。
 私には考えられないことばかりで、戦争は悲惨で言葉に表すことができないぐらいです。そして半世紀以上たった今、私自身が戦争の爪痕《つめあと》を思い知ることとなりました。それは、平成14年秋のことでした。寒川町で相模縦貫道の工事中、毒ガスが見つかったことです。ビール瓶に入った白い液体でした。その場所は旧相模海軍工廠《海軍こうしょう=軍に直属し兵器弾薬を作る工場》の跡地で戦争中に毒ガス兵器が密かに製造されていたようです。イペリットという、吸い込むと呼吸困難に陥り、死にも至る恐れもあるという猛毒だそうです。60年もたった今、身につまされる現実の恐ろしさを知ったのです。住民の不安との対応、対策にたまたま主人が携わっていたこともあって、毎日東奔西走《とうほんせいそう》している姿を目の前にして並々ならぬ事の重大さを感じておりました。たった1本のビール瓶がもたらした戦争の物凄さ、恐ろしさでした。 戦争の体験こそありませんが、二度と絶対に戦争は起こしてはいけないのだと心の底から痛感したのでした。そして二度と起こさないためにも、若い人達へ体験記を伝えて頂きたいと思っております。    

 (聞き手 福岡逸子 昭和24《1949》年生)

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編集者 (代理投稿)

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