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『肉声史』 戦争を語る (16)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (16)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/8/18 7:26
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 「お国のために常に死の覚悟」

 三浦市 川野 猛弘(大正15《1926》年生)

 (あらすじ)

 昭和16年に尋常高等小学校《=旧制の高等小学校》卒業後、鶴見《横浜市》の東芝に就職して通学しながら働いていた。学校実習で作業中に鉄の破片で目を切り、左目が見えなくなった。それで兵隊検査は落とされ、戦争には行けなかった。
 勤めから帰ったら、地元の警防団《=空襲に備えるため消防と防護団を統合した団体》で消防や交通整理等をしていた。警報が鳴ったら警防団の詰め所へ駆けつけた。昼間、空襲警報が鳴ると火の見櫓で見張りをした。そうすると艦載機が火の見櫓目指して撃ってくる。夜の空襲が真っ暗で一番恐かった。遺体を消防車に乗せられるだけ乗せて、お寺まで運んだこともあった。警戒警報の時に火事が出て、早く消さないとそこが狙《ねら》われるからと慌てた。精一杯やらねばという気持ちといつどこで何かあっても対処するのだということは心がけていた。奉公《ほうこう》する気持ちとでも言うのかな。国のためやらねばと常に思っていた。
 生活は、隣組で助け合って暮らしていた。青年団で娯楽もあった。終戦間際の配給は芋の粉やふすま《=小麦を引いたときに残るかわくず》等。勤務先の徴用で来た農家の人が、工場の食券を売って小遣い稼ぎをしていた。私はそれを買って足りない食糧を補充していた。戦後の方が配給も滞《とどこお》って食べ物がなかった。だから地方へ買出しに行った。昼は捕まるから、夜ラッシュアワーに紛れて帰ってきた。
 勤め先が爆撃受けて栃木へ引越ししたので、横浜へ切符を買いに行ったら重大ニュースがあるから12時以降にしか売れないと駅員に言われた。終戦の玉音放送だった。結局切符は売ってもらえず鶴見まで歩いで帰った。今は教育が変わった。切迫感がない。そして物を大事にして欲しい。

 (お話を聞いて)

 戦争については、家族や親族の体験を小さいころから聞いて育った。親族は、今なお心に深い傷を受けており、それを背負って生きている姿を目の当たりにしてきた。そのため、今回の戦争の体験談をインタビューするに当たってはどのくらいご本人に聞いて良いのか悩むところがあったが、質問したことに対しては、辛い経験にもかかわらずお話してくださったことについて、感謝したい。
 お話の中で、一番印象深かったのは、「戦争を知らない世代は、ものを大切にしない。」というところだった。海外では、戦争が続いているが、日本人のほとんどは「他の国のこと」として考えているように感じられ、また、物が溢《あふ》れるほど豊かにはなっているが、物や他人を大切にする心は、戦時中の方々のほうが豊かであったに違いない。
 私たちは、多くの方々が命を懸けて追ってくれた戦争の無い時代を過ごしている事を忘れてはならない。そして、貴重な戦争の体験談を、これからも多くの人が聞く機会があるように願う。 
                   
 聞き手 匿名(昭和47年生)

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編集者 (代理投稿)

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