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『肉声史』 戦争を語る (35)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (35)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/9/17 8:24
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 「疎開先 ご飯がお粥《かゆ》に お湯粥に」

 二宮町 佐藤 敬子(昭和8《1933》年生)

 (あらすじ)

 昭和20年8月15日、私は学童疎開で岡山県高梁市《たかはし市》にいた。
 お寺で終戦の重大放送聴いた。雑音で内容が分らなかったが、宿舎に帰ると敗戦したと分り、皆わあわあと泣き出した。国民学校の6年生だった。当時私は兵庫県芦屋市に住んでいて、小学校でも縁故疎開《えんこそかい=親戚などに疎開》か集団疎開で避難しなさいということになった。「太郎は父の故郷へ、花子は母の故郷へ」と歌われていた。私はすでに父を亡くし、兄も疎開していたので、母との2人暮らしだった。両親の故郷は無かったので、集団疎開することになった。
 まるで修学旅行に行くかのように、大きなリュックでいそいそと出かけた。最期の別れになるかもしれないなどとは考えず、夜汽車に乗って岡山へ。荒れた寺が疎開先だった。そこへ3~5年生と6年1組の女子が寝泊りした。私の6年2組は寺から少し離れた金光教教会の2階へ。1階には金光教の塩谷先生ご一家が住んでいた。私達が到着すると、熟れた梅の実を甘く煮てご馳走してくれた。嬉しかった。勉強は塩谷先生に見てもらい、食事はお寺へ。 お風呂は週に2回位銭湯に行った。洗濯は近くの川で自分で洗った。お寺には寮母さんがいて、小さい子達の面倒をみていた。6年女子にはお手伝いがあった。おこげやゆでジャガイモなどのおやつもあった。ご飯は次第におかゆになり、それもだんだん薄くなっていった。
 父はシナ事変へ出征した。そこで結核患って帰国、病気が悪化して亡くなった。父はどんなに心残りだったろう。また、全国に父の顔を見ずに育った人はどれほどいるだろう。一部の人の利益の為に庶民が犠牲になるのはこりごり。

 (お話を聞いて)

 佐藤敬子さんの話を聞いて・・・この「肉声史戦争を語る」事業がきっかけで聞き手となりましたが、偶然にも佐藤さんが住んでいた芦屋市の隣西宮市で私は生まれ育ちました。
 私が生まれる前に祖父母は亡くなっていたので、戦争に関する話を身近で聞くことはありませんでした。そして、今こうして生活をしていることが当たり前でいましたが、今から十数年前昭和から平成へと時代が変わった終戦記念日を前に、戦争を語り継ごうとまとめられたとき佐藤さんのお気持ちを考えると胸がつまりました。また私が生まれ育った近くでのお話に引き込まれ、情景が目に浮かぶようでした。
 私はどこかでひとごとのように思っていた戦争でしたが、もし佐藤さんのように自分自身が同じ体験をしたらどうだっただろうかと考えさせられました。食べる物もない、医学も進んでない、お父さんを亡くしたからと思うと胸がしめつけられました。このテープ収録に関わる佐藤さんの寂しそうな表情もとても印象に残りました。今までは漠然ととらえていた戦争を今回のことがきっかけで考える時間を与えていただきました。そして、多くの方々の命を土台の上に今私たちが生かされている、そのことを忘れてはいけないと強く思いました。
       
 (聞き手 清水 栄子 昭和38《1963》年生)

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編集者 (代理投稿)

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