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『肉声史』 戦争を語る (34)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (34)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/9/16 7:43
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 「最前線 思わず祈る 千人針《せんにんばり 注1》

 大磯町 橋本 嘉雄(大正5《1916》年生)

 (あらすじ)

 まずシナ《支那》事変の話から。昭和12年9月に中国大陸へ。シナの道路悪く、泥だらけになりながら無灯火の中行軍した。デング《蚊によって媒介されるウイルス性の熱帯伝染病》熱にかかり入院中、内地からの慰問袋《いもんぶくろ=注2》が嬉しかった。
中身は缶詰が主。戦後、慰問袋が縁で結婚したという話も聞いた。退院後、4、5日かけて一人で隊に戻った。心細かった。昭和14年7月に北京を出て帰国し、原隊に戻った。敵の装備が悪かったからシナ事変は勝ち戦だった。
 次は大東亜戦争。昭和16年7月に動員、8月に満州に向けて出発した。東満の国境近くで天幕生活。私は暗号班長だった。軍の暗号を受け取って解読した。「南下を続けろ」という電文で台湾の高雄へ。12月8日の開戦は船の上で知った。輸送船団約20隻に護衛艦が両側について台湾出発。24日フィリピン上陸。隣の船が上陸間際に魚雷を受けて轟沈《ごうちん=雷撃を受けた艦船が瞬時に沈没する》した。上陸後はマニラに抜ける敵を追撃。私達の部隊は露営《=野外に陣営を張る》で、夜は道にごろ寝だった。蚊帳を被って南十字星を眺めて内地を思った。30日には本隊が作戦の主力部隊となり、不眠不休で作戦命令の暗号を解読した。翌1月4~7日の戦闘は、野砲弾が数メートル先に着弾して戦死者が続出、馬が血を噴く中、解読作業に励んだ。この時ばかりは腹に巻いた千人針に祈った。
 敵はバタン半島に逃げ込み、それを追い詰めるのだが、敵は演習地だったので地形をよく知っていた。簡単に落とせると思っていた軍の作戦ミスだった。総攻撃で勝った。敵は2万人程いたが、バタンからマニラまで徒歩で行進した。これが「バタンの死の行進《注3》」として戦後、責任者が処罰された。

 (お話を聞いて)

 「戦争体験」を聞く機会はこれまで多くあり、さいわいにもさまざまな立場からの体験をきいてきたが「体験を引き継ぐ」ことの難しさを今改めて感じている。私の父の今日の肉声史の多くは父も述べているように「勝ち戦でのまた本部での戦争体験であり」、最前線でのまた負け戦での過酷な体験とはかなり異なる。さらに私の妻の父母たちの沖縄住民のように戦場のなかで逃げまどった悲惨さとも異なる。
 ただ、そうした立場でも、戦争の渦中にあったがゆえに不慣れな土地での風土病で野戦病院《=戦場の後方に設け戦線の傷病兵を収容治療する》に取り残された苦痛と不安、敵味方入り乱れ銃弾飛び交う恐怖のもとで千人針を頼み綱と祈ったこと、たまたま生き延びた安堵感などこれまであまり話さなかった当時の体験の肉声を多くきく機会となった。本人にとって思い出したくない体験であり、今の言葉で言えばPTSD症候群といえる死に直面した恐怖体験は、消化し話せるまでには長き時間を要したであろう。東京大空襲後の線路を歩いて秋葉原に向かったときに見た横たわる焼け焦げた死体の累々《るいるい=重なり合うさま》とした情景もつい最近になって話しはじめた。
 では取材者として何を引き継ぐのか。父は最期に要は仲良くし悲惨な戦争にいたらないようにすることと述べた。私の関心もあり第二の人生として世界のとりわけアジアの人と交流することに情熱を傾けたいと考えている。勿論今とこれからを仲良くしたいからである。だがその際に過去のことにほうかむりすることはできない。戦争に巻き込まれた人々には父が「戦争体験」を忘れることができないように、また私のように次世代に引き継がれているからである。
 引き継ぐということは、「戦争体験」をききながら想像し思いを、めぐらすことだと考えている。父のはなしを聞きながら、たまたま砲弾で父の隣で死んだ人の思いを想像し、「敵」であった人の家族のことを考え、戦争に巻き込まれた住民の暮らしに思いをはせていた。
 こうした過去の上で、私そして出会うであろう外国の友とこれからの仲良くする道を探ることにしたい。
               
 (聞き手 橋本進司 昭和23《1948》年生)

注1 千人針=一片の布に千人の女が赤糸で、ひと針づつ縫って縫玉を作り出生兵の武運長久を願い送ったもの

注2 慰問袋=兵士を慰めるために娯楽物や日用品を入れて内地から送ったもの。


注3 バタン、死の行軍=捕虜(病人も多かったが)の護送を徒歩で移動せざるを得ない状態で犠牲者が多数でた

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編集者 (代理投稿)

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