『肉声史』 戦争を語る (40)
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編集者
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「四人四色の戦争があった」
海老名市 芝崎秋夫(大正15《1926》年生)
水島喜代治(昭和5《1930》年生)
鹿茸愛子(大正12《1923》年生)
桜井嘉代(大正12《1923》年生)
(あらすじ)
芝崎
昭和20年に3ケ月ほど東京の近衛3連隊にいて、終戦時天皇の録音版のやりとりの現場に参加した。府中で訓練を受けた。飛行機の操作は簡単だった。横浜の焼け跡の整理に、根岸の競馬場や県民修練場に行った。作業中にグラマンが来て、すごい音だった。
水島
国民学校の卒業式が終わらないうちに、14歳で神奈川県立修練農場に召集された。
知事からの命令書(白紙)拒否できない。当時の食事はご飯の中に大豆を入れたもので、米1、麦7、後は雑穀や芋の葉など。昭和18年に国家総動員法《注1》ができた。
神奈川県は食糧赤字県だった。そこで満州の公主嶺に神奈川県の農場を作った。私達はそこで働く要員だった。入ると「少年農兵隊」に任命される。卒業して修了証をもらうとまた「公主食糧増産要員」という召集時の名称に戻る。14、5歳を半強制的に労働させた首謀者が戦犯を恐れて別称で集め解散させたのだと思う。
満州は6ケ月交代。私達は2期生で昭和20年3月に入った。農家の体の丈夫な次男坊が主体だった。昭和18、9年、中学2年の頃、少年兵に志願できた。上から学校へ「志願兵を何人出せ」と割り当てがあったのだと思う。先生から志願を勧められたが父親が頑として行かせなかった。だからこそ今ここにいる。当時は、志願しなければ炭鉱か軍需工場へと言われていた。教育は怖い。
「欲しがりません勝つまでは」とか、負けていても「神風が吹く」。苦しい時は「戦地の兵隊さんを思え」だった。皆で集まると当時の活動場所は懐かしい。団体活動だから協調性が必要だった。当時泣いた所だけれど懐かしい。先輩が苦しみながら、戦後復興の努力をして我慢してくれた。先人の努力の上に今があることを自覚してほしい。
鹿茸
高等女学校卒業前に日本電気に実習生として入社。6ケ月間タイピスト学校へ通ってジャワ無線機器に応募で入り、インドネシアへ。そこでやがて従業員になる現地の子供に日本語の指導をしていた。
南方に行った昭和19年はすでに負け戦になりつつあった。終戦後赤十字条約《注2》のもと、着の身着のまま帰国した。インドネシアへ向かう際、乗船命令が遅れて1年近く門司で足止めされた。その間にインドネシア語を勉強して、行ってから役に立った。シンガポールに着いたら原色がきれいでびっくりした。
終戦前日、海軍大尉に白い絹の落下傘で袴《はかま》縫ってくれと言われた。帰国時は、短刀持って何かあったらこれで死ぬ覚悟で帰ってきた。帰国の船の上でデマが飛んで、横浜も全滅だと聞いた。途中船で亡くなった方がいて、水葬した。船が3回ボーッと回った。 ジャワの人はとても親切にしてくれた。外地へ行って初めて「日本の旗いいな」と思った。生きている裏側には犠牲になった人がいたということを忘れずにいてほしい。
桜井
横須賀に住んでいたので、軍港があるからすぐに空襲があるだろうと思っていたが、軍港があるからこそ大丈夫だったようだ。主人が戦艦大和に乗っていて、やられた時に「もうだめだろう」と周りから言われたが私は気にしなかった。アメリカ上陸に備えてみんな田舎へ疎開したから隣組がいなかった。主人は戦艦大和278人の生き残りの一人だった。私達が疎開する寸前に会えた。甲板にいたから助かったらしい。命落とした人と紙一重だったそうだ。
注1 国家総動員法=日中戦争に際し人的および物的資源を統制し運用する権限を政府に与えた
注2 赤十字条約=1864年ジュネーブで締結された赤十字にたいする国際条約
海老名市 芝崎秋夫(大正15《1926》年生)
水島喜代治(昭和5《1930》年生)
鹿茸愛子(大正12《1923》年生)
桜井嘉代(大正12《1923》年生)
(あらすじ)
芝崎
昭和20年に3ケ月ほど東京の近衛3連隊にいて、終戦時天皇の録音版のやりとりの現場に参加した。府中で訓練を受けた。飛行機の操作は簡単だった。横浜の焼け跡の整理に、根岸の競馬場や県民修練場に行った。作業中にグラマンが来て、すごい音だった。
水島
国民学校の卒業式が終わらないうちに、14歳で神奈川県立修練農場に召集された。
知事からの命令書(白紙)拒否できない。当時の食事はご飯の中に大豆を入れたもので、米1、麦7、後は雑穀や芋の葉など。昭和18年に国家総動員法《注1》ができた。
神奈川県は食糧赤字県だった。そこで満州の公主嶺に神奈川県の農場を作った。私達はそこで働く要員だった。入ると「少年農兵隊」に任命される。卒業して修了証をもらうとまた「公主食糧増産要員」という召集時の名称に戻る。14、5歳を半強制的に労働させた首謀者が戦犯を恐れて別称で集め解散させたのだと思う。
満州は6ケ月交代。私達は2期生で昭和20年3月に入った。農家の体の丈夫な次男坊が主体だった。昭和18、9年、中学2年の頃、少年兵に志願できた。上から学校へ「志願兵を何人出せ」と割り当てがあったのだと思う。先生から志願を勧められたが父親が頑として行かせなかった。だからこそ今ここにいる。当時は、志願しなければ炭鉱か軍需工場へと言われていた。教育は怖い。
「欲しがりません勝つまでは」とか、負けていても「神風が吹く」。苦しい時は「戦地の兵隊さんを思え」だった。皆で集まると当時の活動場所は懐かしい。団体活動だから協調性が必要だった。当時泣いた所だけれど懐かしい。先輩が苦しみながら、戦後復興の努力をして我慢してくれた。先人の努力の上に今があることを自覚してほしい。
鹿茸
高等女学校卒業前に日本電気に実習生として入社。6ケ月間タイピスト学校へ通ってジャワ無線機器に応募で入り、インドネシアへ。そこでやがて従業員になる現地の子供に日本語の指導をしていた。
南方に行った昭和19年はすでに負け戦になりつつあった。終戦後赤十字条約《注2》のもと、着の身着のまま帰国した。インドネシアへ向かう際、乗船命令が遅れて1年近く門司で足止めされた。その間にインドネシア語を勉強して、行ってから役に立った。シンガポールに着いたら原色がきれいでびっくりした。
終戦前日、海軍大尉に白い絹の落下傘で袴《はかま》縫ってくれと言われた。帰国時は、短刀持って何かあったらこれで死ぬ覚悟で帰ってきた。帰国の船の上でデマが飛んで、横浜も全滅だと聞いた。途中船で亡くなった方がいて、水葬した。船が3回ボーッと回った。 ジャワの人はとても親切にしてくれた。外地へ行って初めて「日本の旗いいな」と思った。生きている裏側には犠牲になった人がいたということを忘れずにいてほしい。
桜井
横須賀に住んでいたので、軍港があるからすぐに空襲があるだろうと思っていたが、軍港があるからこそ大丈夫だったようだ。主人が戦艦大和に乗っていて、やられた時に「もうだめだろう」と周りから言われたが私は気にしなかった。アメリカ上陸に備えてみんな田舎へ疎開したから隣組がいなかった。主人は戦艦大和278人の生き残りの一人だった。私達が疎開する寸前に会えた。甲板にいたから助かったらしい。命落とした人と紙一重だったそうだ。
注1 国家総動員法=日中戦争に際し人的および物的資源を統制し運用する権限を政府に与えた
注2 赤十字条約=1864年ジュネーブで締結された赤十字にたいする国際条約
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