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『肉声史』 戦争を語る (24)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (24)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/8/27 8:30
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 「焼夷弾はザーという音で降ってきた」

 藤沢市 小野 進(大正14《1925》生)

 (あらすじ)

 昭和20年5月29目、横浜の大空襲で中心部はほとんど焼き尽くされた。その日は朝からラジオで空襲警報。私と母と同居の女性は、家の前に掘った防空壕に入った。当時は皆、家の前の道端に穴を掘り、板で土留めしてその上に土を被せた防空壕を作っていた。3人も入れば一杯で、弟は隣の家の防空壕に入った。入り口から上空を見ていたら、保土ケ谷方面から山下公園の方へ9機編隊で飛んで行くのが見え、落とした焼夷弾がゴマを撒《ま》く様に散って落ちてくる。3波目の9機が落とした焼夷弾がザーッと者を立てて落ちて来た。
 防空壕の蓋を閉め、ダンダンと破裂音がした。 B29が通過したのを見て家へ飛んで入ったら、奥の部屋の床の間付近で掛け軸が燃えていたので、座布団で叩き消した。2階へ上がったら、壁に1発突き刺さり、壁の芯の竹が燃えていた。当時の壁は竹を編んで土を塗り漆喰《しっくい》で仕上げたものだった。これは消せないと、裏山の小学校へ避難。轟々と音を立てて飛んでいく飛行機とボウボウ燃える音。学校へ避難する途中もザーザーと(焼夷弾が)落下してくる音。早く逃げたので煙にも巻かれず4人一緒に学校へ行けた。死者3700人、負傷者1万人程出たらしい。山の上の学校から見ても煙一面で何も見えなかった。正午頃静かになり、煙も少なくなったので町を見たら一面の焼け野原。やられたと思い、悔しいという思いはなかった。これでもう空襲は来ないなという気持ちだった。戦争は普段の暮らしをダメにするもの。平和が何よりだ。


 「地面がノート、苦しい疎開先の生活」

 藤沢市 西川 美津子(昭和8《1933》年生)

 (あらすじ)

 私は当時小学5年生で田舎がなかったので学童疎開した。疎開先は愛甲郡《=神奈川県の》の寺だった。
 初めての経験で遠足に行くような気特ちで出発したが、疎開先でも食糧不足で朝から雑炊。
 だんだん要領を覚えて、後方に並ぶと鍋底に沈むご飯粒が食べられることが分かり、なるべく後の方に並んだ。週2回農家にお風呂を貰いに行くと、風呂上りにもらえる蒸《ふ》かし芋が楽しみだった。 疎開先がお寺だから、皆お供えを狙《ねら》っていた。朝礼で、皇后様の教を暗唱した。未だは忘れちれない。頂いたビスケットも10日間程食べた。勉教はしなかった。ほとんど生活に費やした。 
 自分達のことは自分達でやった。兄弟の多い子が生活の知恵を持っていて、リーダーシップをとっていた。教科書は不足していた。地面がノート、新聞紙で習字練習した。疎開する前は配給制度。3人兄弟の末っ子で、母が早くに亡くなっていたが近所が助けてくれた。自分達の子と一緒に育ててくれた。今は豊かだけど殺伐として、子供がかわいそう。豊かなのに何か足りない。昔は皆助け合って生きていた。
 戦争終わって疎開から親元へ戻れるのが嬉しかった。灯火管制《=夜間敵に悟られないように減光、遮光、消灯》がなくなっで家が明るくなったのも嬉しかった。生きることに無我夢中だった。爆弾がもう落とされないのが嬉しかった。

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編集者 (代理投稿)

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